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猫になりなさい

 女は後悔した。男にそんなことを尋ねるべきではなかったのだ。女がそのことを尋ねると、男は口をつぐんだ。まるで口の中に小石を放り込まれたかのように、一言も話さなくなった。あるいは、舌を引き抜かれたかのように。
 女には二の矢の用意があった。「なんで答えないのよ?」そして三の矢「都合が悪くなると、そうやって黙るのよね」
 言ったところで何も変わらない。そんな状態になるのは、最初からわかっていたのだ。男は沈黙するだろう。女の質問に答えようとしないだろう。女は後悔した。それは男を追い詰めてしまっているという申し訳なさでは断じてなく、自分で自分自身を袋小路に迷い込ませことに対する後悔だった。男が黙ったことで、女もどこにも行けなくなった。女も黙まらざるを得なかった。だから、女は後悔した。結局、それは女自身を幻滅させることでしかないのがわかっていながら、尋ねてしまったことに。男が答えない、もしくは答えられないことを、女は知っていたのだ。女は男に幻滅するであろうことがわかっていた。それまでも何度も何度も幻滅してきた。そのたびにもう二度とそんな馬鹿なマネはしないようにしようと心に決めるのだが、実際にそうした場面に直面するとまた馬鹿なマネをしてしまう自分がいるのだ。そんな自分の振る舞いに、女は後悔した。
 男の側からすると、そんなことを尋ねる女に憤っていた。男は女がそう尋ねないことを望んでいた。尋ねられれば、口をつぐまざるを得ないことを男はわかっていたからだ。男は自分が答えない、もしくは答えられないことを知っていたし、女がそれを知っていることも知っていた。それでいて、それを尋ねた女に立腹していた。非が自分にあるのは男自身もわかっていた。それでもなお、男は女に憤っていた。女がただただ自分を追い詰めるだけにそう尋ねたと思ったからだ。それは答えを期待していない問いかけ。単なる攻撃でしかない。そこに対話がないにもかかわらず、まるで答えなければならないのは自分であり、答えられないことで全面的に自分が悪いことにされているように、男には思えた。実際、男が全面的に悪かったとしても、男は女の振る舞いに憤っていた。
 男は、ここではないどこかで誰かが幸せそうに笑っているのを想像した。ここではないどこか、世界のどこかにある幸福。穏やかで、温かい幸福。それこそが望まれるべき幸福なのだと、その時の男には思えた。どんな達成も、征服も、支配もいらない。男はただただ穏やかに眠りにつきたいと、それだけを願った。憂鬱な気持ちを抱えたまま目覚めるのにはうんざりだった。たとえ、それが自分の蒔いた種であったとしても。
 そうして長いこと沈黙だけがあった。女も、男も何も話さなかった。女の問いかけはもうその力を失っていた。男が答えないことを、女はなんとも思っていなかった。それはそうなるだろうと思われていたことであり、実際そうなったことというだけだった。
 女はおもむろに立ち上がると、男に歩み寄り、魔法をかけた。男は魔法で猫になった。「ニャア」と猫になった男は鳴いた。女はそれを抱き上げると膝に載せ、抱き締め、もう何も尋ねなかった。 猫に何を言ったところで仕方ないからだ。




No.177

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