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ぼくの悲しみと、君の悲しみと

 街を歩いていて、ふとショーウィンドウを見るとぼくのとよく似た悲しみが展示されていた。ぼくは自分の首からぶら下げたそれを確かめる。本当によく似ている。首からぶら下げたぼくの悲しみと、ショーウィンドウのなかの悲しみ。瓜二つと言ってもいいくらいだ。どちらがどちらか見分けがつかない。それの持ち主であるぼくですら。
 ぼくは愕然とした。ぼくのそれは、この世にひとつのものだと思っていたからだ。この広い世界中に、たったひとつのぼくの悲しみ。そう信じて、ぼくはそれを大切にしてきたのだ。それが、いま目の前にはまったく同じ姿をした悲しみがある。その事実だけでも目眩を催すくらいの衝撃だったのに、さらに悪いことに、そのショーウィンドウから店の中を覗くと、バーゲンセールのワゴンにそれと同じ悲しみが山のように積まれているのだ。その有様は、悲しい有様だった。赤い字ででかでかと値引きされた値段がかかれ、それでいてその悲しみを手に取るような人もいない。誰もがそこを素通りし、もっと価値があって、優れたもの、いいものを買おうとしている。誰もその悲しみに見向きもしない。それ以上に悲しい光景があろうか?ぼくには想像できない。
 ぼくは自分の胸の上で揺れている悲しみを無造作に掴むと、それをぶら下げた紐を力一杯引っ張ってちぎった。そして、躊躇いもせずにゴミ箱に捨てた。
 こうして、ぼくは悲しみを捨てた。
 悲しみのない人生はやや味気の無いものではあった。なにしろ、本来あるべき感情のひとつがないのだ。そのひとつがないだけで、喜びも、楽しみも、怒りでさえ、少しくすんだものになった。どうにも心の底から喜ぶことはできないし、夢中になって楽しむこともできない、我を忘れて怒り狂うこともできない。すべては悲しみの無いせいだが、しかたがない。ぼくは後悔をしていなかった。あのまま、あの悲しみを持っていることに、ぼくは耐えられなかったのだ。どこにでもある、退屈な悲しみ。そんなものを得意げに首からぶら下げていたぼく。思い出すたびに赤面し、身をよじりたくなる。消してしまいたい過去。あの悲しみは、まさにその消し去りたい過去そのものなのだ。
 そんなある日、ぼくは君に出会った。
「君は」と、きみはぼくに言った。「悲しみを持っていないんだね」
「うん」と、ぼくは答えた。「捨てたんだ」
「どうして?」と、君は尋ねた。
「いらなかったんだ」と、ぼくは俯きながら言った。「あんなもの」
「そう」と、君は言った。「後悔はしてないの?」
「してないね」ぼくは鼻息荒くそう言った。「無くてせいせいしてる」
「それなら良かった」と、君は肩をすくめた。
「君は」と、ぼくは恐る恐る尋ねた。「悲しみを持っているの?」
 恐る恐るだったのは、君の悲しみがなにか素晴らしい悲しみだったら、ぼくは耐えられない気がしたからだ。どこにでもあるような悲しみしか持たなかったぼくは、それを恐れた。特別で、唯一無二の悲しみを見せつけられるのではないかと。君は小さく頷いた。
「これが」と、君はそっと懐から悲しみを取り出した。「ぼくの悲しみだよ」
 それはぼくの持っていたのと変わらない、どこにでもある、バーゲンセールで売られるような悲しみだった。ぼくは安堵の息を漏らすとともに、嘲りの気持ちが自分の中に芽生えているのを感じ、それを表い出すまいと取り繕った。
「悪くない悲しみだね」ぼくは言った。
「そうかな?」と、君は少し照れ臭そうに言った。「どこにでもある悲しみさ」
 ぼくは内心大きく同意し、頷きながら、口では「そんなことは無いよ」と言った。「これは君の悲しみじゃないか。君だけの悲しみだ」
「うん」と、君は言った。「それはまあ、そうだね」
 そうだ。と、ぼくは思った。それはどこにでもある悲しみだったけれど、君だけの悲しみだったのだ。それは矛盾するけれど、矛盾しない。どこにでもあり、かつ君だけのもの。誰も肩代わりのできないもの。
「君だけの悲しみだ」ぼくはもう一度噛み締めるようにそう言った。そして、自分のしたひどくおろかな行為のことを思い出していた。
「行かないと」ぼくは言った。
「どこに?」君は尋ねた。
「いや」と、ぼくは平静を装った。「ちょっと忘れ物をしたみたいなんだ」
「そう」と、君は言いながら悲しみを懐にしまった。「見つかるといいね」
「うん」と、うわの空で答え、ぼくは一目散にぼくの悲しみを放り込んだゴミ箱のある場所に飛んで行った。あれから、もうずいぶん時間が経っていて、それがもうそこには無いことはわかりきっていたのだけれど、それでもそうせずにはいられなかった。
 思った通り、そこにぼくの悲しみは無かった。
「見つかった?」君は尋ねた。
「ついて来てたの?」ぼくはそう言った。
「心配だったんだ」
「大丈夫」大丈夫。これまでも悲しみなしで生きてきた。これからだって、そうして生きていける。
「ぼくの悲しみを」と、君はぼくの耳元で囁いた。「少し分けてあげようか?」
「そうすると」と、ぼくは答えた。「君の悲しみが減ってしまうだろう」
「構わないよ」と、君は言った。「君になら」そう言って、君は懐から悲しみを取り出し、アンパンでもちぎるみたいにどれを手でふたつに分け、片方をぼくに差し出した。
 ぼくはそれを受け取ると、涙を流した。


No.519


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