見出し画像

彼は夢を見ていた

 彼は夢を見ていた。
 夢の中、彼は小さな部屋の中にいた。いや、これには語弊がある。部屋は暗く、彼の周りだけが照らされていて、部屋の広さはわからないのだ。ただ、その部屋は彼には狭く感じられた。ひどく息苦しく、喉が閉められるようである。それは、あるいはそこに人がひしめいているからなのかもしれない。
 その部屋で、彼は男たちに取り囲まれていた。これもいささか正確さを欠く表現だ。彼を取り囲む人物たちは、闇の中にその姿を隠していて、男なのか、女もいるのか、彼には判然としないからだ。それはただ気配としてだけそこにあり、それはギュッと凝縮し、彼に覆いかぶさって来そうなほどだった。
「君は」と、その中の誰かが言った。「夢を見ているのだな」
 そう言われて、彼はそれが夢の中での出来事であることを理解した。
「現実を見たまえ」
「いつまでそんなことをしているつもりだね?いい年をして」
「生活はどうするつもりなんだい?」
「夢で食べていけるとでも?」
「甘いなあ、考えが。甘いよ。現実はそんなに甘くないから」
「そうやって逃げているだけでしょ、現実から。そんなんじゃ通用しないよ」
「ちゃんとつらいことと向き合わなけりゃダメだ。そうしないと成長しない」
「ここでちゃんとやれない奴が成功すると思う?そんなわけないだろ」
「才能があるやつってのはちゃんと見つけられるんだよ。誰にも見出されないお前に才能なんてないんだよ。さっさと諦めな」
 言葉は矢継ぎ早に彼に向って投げつけられる。誰も手を緩めるということをしない。相変わらず顔は見えない。彼ひとりが照らし出され、言葉を投げつける人々は闇の中に隠れ、その影しか見えない。彼は、最初は反論をしようとした。しかし、その集中砲火は途切れることがなく、彼がなにかを言おうと口を開いたときには新たな言葉がぶつけられていて、彼は諦め、反論を試みることすらしなくなり、最後にはただ黙っているだけになった。それでも、言葉のつぶての嵐が止む気配はない。言いたい放題だ。彼はただその時間が過ぎ去り、終わってくれることを祈り始めている。俯き、自分の影を見ながら。
 そこに、誰かが歩み出て、人々の言葉を制した。彼は顔を上げ、その人の顔を確かめようとしたが、その背後から光が当てられていて、顔の表情はおろか、そのほんの些細な造作も確かめようがなかった。
「まあまあ」と、その人は言い、彼に肩に手を置いた。低く良く通る声、分厚くて熱い手。「彼は夢を見ていただけなんだよ。夢はいつか醒める。じきにちゃんと現実を見ることになるさ。なあ」と、彼を促す。彼の言葉を。彼はその人がどんな言葉を期待しているのかがわかる。わかるが、曖昧な表情をする。それを見て、その人は一瞬眉を潜め、それに気取られぬようすぐに気を取り戻し、また彼に語りかける。
「夢は夢さ。そうだろ。それは、じきに醒める」そして、微笑む。影になっているが、微笑むのがわかるような、押しつけがましい微笑だ。彼はそれに屈しそうになる。その圧力に、音を上げそうになる。俯き、目をつぶる。ぎゅっとつぶって耐えようとする。自分の中に、投げつけられた言葉たちと同じような言葉を見つける。「夢は夢だ」
 そう受け入れた方が、楽なのかもしれない。現実を見て、波風を立てず、独りよがりのわがままを言わず、特別なところのない、平凡な人生でもいいじゃないか。それのどこが悪い?
 彼は、手に温もりを感じた。目を開く。子どもが、彼の手を握っている。彼の握ったこぶしを、その上から。
「これは」と、その子どもは言った。「ぼくの夢だ」
「え?」
「おじさんが握ってるの」子どもはそう言って、彼の指を触った。「この中にあるの、ぼくの夢だ」
「君の夢?」
 子どもは頷く。
「ちがうよ」彼は言った。そして、手を開く。「これは、ぼくの夢だ」彼はそう言う。
 子どもは彼の手のひらの上を見て「ホントだ。これはぼくの夢じゃなくて、おじさんの夢だね」と言い、姿を消した。彼は顔を上げ、周りを見回す。人影はすべて消えていた。
 そこで、彼は目を覚ました。朝だ。
 彼は夢を見ていた。そして、夢を見ている。


No.543


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?