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その眼差しが

 わたしの生家は写真館だった。地方の小さな町の小さな写真館だ。
 出征前までは父はそこで漁師をしていた。戦争が終わり、復員してみると、なにもかもが変わってしまっていたという。何よりも大きかったのが、父の唯一の財産であったとさえ言える漁船が軍に徴収され、しかも敗戦のゴタゴタで返還されることも、補償がされることもなかった。父は途方に暮れたそうだ。そんな父を助けたのは、生来の手先の器用さだった。漁師だった頃は、漁網を繕わせたら父の右に出るものは無かったし、父の作った釣りの仕掛けは次々に魚を釣り上げたものだった。軍に入った後には、最初歩兵だったのが、どんなきっかけか、手先の器用なことがわかり、通信兵の補助のような任務にあたることになったそうだ。通信機器の不具合があるとそれを解消するのだ。その時の上官が写真機好きであり、戦地にまで小さな写真機を携えて来ていたのだそうだ。そこで父は初めて写真機に触れた。そして、その扱いを学んだのだ。
 復員し、全てを失った父は、一から始めるにあたって、写真館を開くことにした。なぜそんな選択をしたのか、わたしにはいまいちわからない。またお金を貯めて漁師をしても良かったはずだ。おそらくではあるが、父は漁師が嫌いだったのではないか。
 写真館はそれなりに繁盛した。もしも世間が経済的に逼迫していたのなら、自分の、自分達の姿を写真に留めようなどと考えることは大分優先順位の低いことになるだろうが、戦争が終わり、平和が訪れるとそうした人々にそうした余裕が出てきたのだろう。また、全てを失った人々には、何かを留めたいという衝動があったのかもしれない。
 町の人々は、何か祝い事があると父の写真館で写真を撮った。家族が増えた時、学校に上がった時、学校を卒業した時、結婚をした時、人々は人生の節目節目に写真館を訪れ、写真を撮った。考えてみると、父は多くの人々の人生の節目節目に立ち会ったことになる。それはどんな感じなのだろうか。それを尋ねる前に、父は死んでしまった。病を得たかと思うと、あっという間に痩せ細り、そして死んだ。わたしには雀の涙ほどの時間も与えてくれなかった。父は何も残さなかった。どんな苦労をしたのか、幸せな記憶はどんなだったか、そして父自身が写った写真も。
 父の残したものがあるとすれば、それは膨大な写真だ。人々の人生の節目節目に撮られた写真。わたしたち家族もまた、父に写真を撮ってもらっていた。それは年の初めの恒例行事だった。
 最初は母だけが、その頃はまだ母は母になっていないのだけれど、彼女だけが写った写真だ。すぐにそこに赤ん坊のわたしが加わり、何年かすると弟が加わった。わたしと弟の背は確実に伸びていき、母の白髪が目立つようになり、シワが増えていく。年頃になったわたしは、不機嫌そうな顔で写っている。その頃わたしはこの行事が嫌いだった。なんだか無理矢理家族にさせられているような気がしていたからだ。家族の絆、みたいなものを、無理矢理押し付けられているような気がした。そのくせ、それはいつも未完成なのだ。なにしろそこには父がいない。父はいつも写真機の向こう側にいた。父も入って写真を撮る手立てが無いわけではなかったろうに、父は写真に入ろうとしなかった。そのことも、わたしは嫌だった。父はズルいと思っていた。だから、写真は撮っても、わたしはそれを見ようとはしなかった。
 父が死んで、写真館を畳むということで整理をしていると、その家族写真が出てきた。それを見たとき、わたしは自分が間違っていたことに気付いた。わたしは父が写真に写っていないと思っていたが、そこに父はいたのだ。父の姿があるわけではない。父の眼差しが、家族を見る温かい眼差しが、間違いなくそこに写っていた。どの写真にも、その眼差しが。


No.219

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