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空を飛ぶ夢

 結局のところ、彼の名は失敗の歴史、敗者の名簿に刻まれることになる。事実、彼は失敗したのだ。彼の愛した、彼の頭上に広がる大空は彼を受け入れるほど寛容でなく、 母なると形容される大地は無慈悲だった。もちろん、罰せられる理由を作ったのは彼であったのだが。しかしながら、それは死をもって購わなければならないほどの罪であっただろうか。大空を自由に飛び回ることを夢見ることが。
 物心ついた彼のその心を真っ先に、そして終生掴んで離さなかったのは、場合によってはその命を奪った原因を作ったそれは、鳥たちであった。
 鳥たちの、その美しい声音を愛でる者もいるだろう。姿に心を奪われる者もいるかもしれない。しかしながら、彼にとっての鳥の魅力とはすなわち飛翔に他ならなかった。
 まだ人類が大地に縛られていた時代である。地を這うその種族に許された飛行とは熱した空気を詰めた風船で漂うことのみであった。それは鳥たちの自由とはかけ離れたものであった。人々は鳥のように空を飛び回ることに憧れた。それはある個人の願望を超越した集合的な種族としての欲望であったのだろう。多くの科学者や発明家、自称発明家たちが、鳥のように飛ぶための機械を作ろうと日夜懸命に励んだ。それは後に飛行機と呼ばれることになるものとは似ても似つかないものを数多く産み出した。しかしながら、そうした失敗の積み重なりによって形成された山が、唯一の成功を、そしてその後の発展の礎になったに違いない。
 そして、彼もまた、飛翔の欲望という大河の一滴であった。
鳥に憧れた少年は長じて技師となった。織機や農耕用機械の修理が主な仕事である。彼の暮らした町は地方の、農業で成り立った町だった。彼はそこでそうして熱心に働きながら、その傍ら同じ温度、それ以上の熱量でもって、鳥のように飛ぶための機械の発明に取り組んだ。
 彼は鳥をモデルに、羽ばたき翼による飛行を目指した。子供の頃から見てきた、鳥たちの羽ばたきを再現しようとしたのだ。飛行機を知る者にとって、それは荒唐無稽な試みに映るかもしれないが、その当時にあっては、飛行は鳥たちの専有物であり、範とすべきはその動作なのであった。
 結局のところ、その発明、飛行機の発明はあの兄弟によってなされることとなるわけだが、それがなされる為には、こうした幾多の失敗が必要だったのだ。それが例え技術的にはなんの貢献もしていないとしても、その魂の部分でそれは下支えとなっていたのだ。
 彼は仕事にも熱心に取り組んだから、土地の人々の信頼は篤かった。それはその空を飛び回るための機械を作るという奇異な試みも受け入れられるほどであったし、彼が命を落とすことになるその実験、彼が作り上げたその機械の飛行実験には多くの人たちが見物に集まることからも明らかだろう。
 幾多の試作品を経て、彼は自分で乗り込んで空を飛ぶためのそれを作った。
 その日、彼が歴史的な日となると考えていた日、結果として彼の墓碑に彼が死んだ日として刻まれることになった日、天候は晴れ、微風、最良のコンディションである。
 後の証言では、それは飛行とは呼べなかった、落下である、というものもあったが、それは彼の感覚とは些か異なるし、事実としても、彼の実験したその丘からでは、墜落死するには高さが十分でなく、つまりある程度の飛行がなされたからこそ、彼は命を落としたのだと見るのが公正な見方なのではあるまいか。
 彼の感覚。
 暖かい風が吹いている。みんなが見ている。歓声が聞こえる。背後でエンジンが震える。その動力をクランクが伝える。翼が羽ばたく。風を捕まえる。飛行が目前に迫っている。胸が高鳴る。エンジンの鼓動と共鳴する。助走を始める。自分の息づかいがまるで他人事のように思えてくる。加速、丘を駆け下りる。地面を蹴る。ふわり、としか言えない。それはやや性的な経験に似ている。飛んだ!
 落下はあっという間であった。
 墜落の主な原因は主翼の損傷であった。主翼が折れたそれは木と金属の塊となり、重力の軛に縛られたそれは、彼もろとも落下したのだった。地面に叩き付けられた彼は、しばらくして息絶えた。
 彼の名は敗者として歴史に刻まれることになる、もしくは刻まれることすらないかもしれない。だがしかし、彼は間違いなく夢を叶えたのだ。それは一瞬であったとしても。



No.404


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