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彼の好きなところ三つ

 彼の好きだったところは、三つあって、まずは沈黙が気詰まりではなかったところ。
 その頃わたしは、今よりももうちょっと若くて、まだ学校に通っていて、もうちょっとだけひねくれていたから、愛想笑いなんて絶対しなかったし、頑張って話を盛り上げようともしなかった。頑張ってる男の子を見ると、わたしの気持ちはグッと冷え込んで、こいつなにやってんの、みたいな目付きでそんな男の子を見詰めたものだ。そうすると、その男の子はそんな空気をどうにか変えようと焦ってどつぼにはまるわけだ。わたしが席を立つカウントダウンがはじまる。
 わたしがその頃ちょっとちやほやされたのは、そんな感じの近寄りがたさがあったからではないかと思う。別にわたしは美人じゃない。難しいゲームに挑戦する感じ。わたしはそういった奴らをもれなく軽蔑した。そして、軽蔑すれば軽蔑するほど彼らは傷つけられたプライドの回復に躍起になり、わたしを追い回し、最後には根も葉もない噂を流してくれた。まさにルサンチマンの御手本みたいだ。といっても、わたしなんてたいしたものじゃなかった。自分でも人並みの器量だと思うし、何か取り柄があるわけでもない。いつも無表情で愛想がない。おそらく、わたしが幼かったのと同じくらい、あるいはそれ以上、彼らが幼かったのだろう。わたしと彼らはもしかしたら同一の物事の裏表にいただけかもしれない。それがどんな物事なのかはわからないけれど。
 別な理由付けをするなら、太った女の子が好きな男の子もいるし、痩せた女の子が好きな男の子もいる。そんな感じで、無表情で無愛想な女の子が好きな男の子ってのもいるのかもしれない。そして、わたしはそんな需要にうってつけだった。
 まあ、真相がどんなだったかはわからないし、一つの原因にまとめられることでもないと思う。
 そんなこと考えてしまうと、もう考えるのがうんざりしてくる。だって、「まあ、理由はイロイロさ」なんてのは何も言ってないし考えてないのとおんなじだ。
 まあ、いい。
 彼はわたしの同級生だった。わたしは彼が喋るのを聞いたことがなかった。ほとんど聞いたことがない、なんてレベルじゃなくて、全く、全然聞いたことがなかった。友達と話しているのも見たことがない。というかそもそも友達なんていなかったのかもしれないけど。そういうのも聞いたことがなかったし。出席の点呼も彼は手を挙げることで済ましていた。たぶん、学校の誰一人として、彼の声を耳にしたことのある人はいなかったのではないかと思う。わたしは彼は何か声を出せない問題を抱えているのだと思っていた。わたし以外の人たちもそう思っていたのではないかと思う。喉がおかしいとか、そういうやつだ。
 彼は屋上への扉の鍵を持っていた。それが彼の好きだったところの二つ目。
 屋上に生徒が立ち入ることは禁止されていて、鍵がされていた。どこから手に入れたのかはいまもって謎なのだけれど、彼はその鍵を持っていた。これはわたし以外の誰も知らないことだ。先生たち含め、学校の誰もそれを知らなかったのではないかと思う。もし知られていたら、彼はきっとその鍵を取り上げられていただろうし、彼はいつもとにかく用心深く、誰にも気づかれないように注意を払っていた。
 わたしがそれを知ったのは単なる偶然だ。
 その頃のわたしは、掃除用具入れに入っているのが好きだった。あの縦長のロッカーみたいな、ホウキやなんかを入れておくあれだ。屋上に通じる階段の一番上の踊り場にはそれが置いてあった。階段を掃除する生徒が使う用具を入れるためのものだ。階段掃除は言うまでもないだろうけど不人気で、四階から一階まで降りて登ってをするのは確かにうんざりだった。だから、その当番はよくサボられた。ほとんど使われていないと言っても過言じゃなかった。
 わたしはよく、その中に入った。もちろん、そこは埃っぽくてかび臭くて最悪の場所だったけど、わたしにとっては宇宙空間の中の宇宙船みたいに、そこでだけ息ができるみたいな感じだった。学校の他のどこにいても、学校だけじゃなく他のどんな場所にいても、息が詰まった。
 その日もわたしはその中に入ってジッとしていた。放課後で、グラウンドで野球部が掛け声をわめきながら走っているのが聞こえた。吹奏楽部が楽器を鳴らしていた。わたしの周りだけは静かだった。
 階段を上がって来る足音が聞こえた。わたしは息を潜めた。掃除用具入れの扉には隙間があって、そこから外の様子を窺った。彼だった。彼が周囲を気にしながら上がって来て、屋上の扉を開けるのが見えた。それを見て、わたしは思わず掃除用具入れの扉を開き、飛び出してしまった。
 彼の驚いた顔と言ったらなかった。いまでも笑える。でも、驚いて当然だ。掃除用具入れから人が飛び出してくるなんて誰も思わない。
 彼は慌ててわたしのところに来ると、わたしの手首をぎゅっと掴み、階段を駆け上った。わたしはされるがままだった。気づくと屋上にいた。良く晴れた日で、それまで暗がりにいたわたしの目には少し刺激が強すぎるくらいだった。
「あんなとこでなにしてたの?」と彼は言った。はじめて聞く彼の声だった。
「別に」とわたしは答えた。
「ふうん」と彼は言うと、扉の鍵を閉め、それに背を預けて座った。ポケットからタバコを取り出し、それに火を着けた。
「吸う?」
 わたしは首を横に振る。
「あんまりフェンスの方に行かないでね。見つかっちゃうから」とだけ言い、あとはなにも言わなかった。わたしは彼の横に腰を下ろし、ただただぼんやりとしていた。話をするわけでもなく、ぼんやりと。夕日が空を染め、夜の帳が降りるまでそうしていた。
 それから、そうして過ごすのが日課になった。わたしが掃除用具入れに潜み、彼が来たら屋上に出てぼんやりする。暗くなったら彼が立ち上がるから、それが帰る合図だ。彼はなにも言わず、わたしの家の近くまで一緒に歩いてくれた。もしかしたら単純に帰り道が同じだったのかもしれないけど。
 彼はわたしのことをどう思っていたのだろう。それはわからない。一度もそんなことは尋ねなかったし、そもそも会話は一度しかなかった。
「なにを考えてるの?」とわたしは尋ねた。
「死ぬことについて考えてるんだ」
「死にたいの?」
「いいや」と彼は首を横に振った。「死にたかろうが、死にたくなかろうが、人はみんな死ぬじゃない。そのことについて考えてる」
 確かにそうだ、とわたしは思った。それだけだ。
 卒業してから、彼とは会っていない。屋上に行くことが無くなったからだ。



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