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土に線を引いてみても

 わたしとしたことが、迂闊にも居眠りをしてしまった。わたしが居眠りをしている隙に、奴は境界線をわたしの目の前に引き直している。ほんの目と鼻の先だ。居眠りから目覚めたわたしの驚きは言うまでもないだろう。それは本来ならば、わたしのいる場所と、奴のいる場所のちょうど真ん中辺りにあった境界線なのだ。およそ3メートル先。そここそが本来境界線のあるべき場所なのだ。いや、これには語弊があるが、少なくともそれよりもこちらに近くていいはずがないし、ましてやわたしの目と鼻の先であるはずがない。
 この土地の大地は軟らかく、木の枝の先で簡単に線が描け、足で払えば容易く消せる。奴は本来あった境界線を足で消し、木の枝で新たな境界線、わたしは断じてそれを認めるつもりはないのだが、境界線を引いたのだ。
「卑怯だ」わたしは抗議した。「眠っている時を襲うなんて人間のやることか?」
「なんのことだね?」と奴は肩をすくめた。「もとから境界線はそこにあったんだ。これはわたしの固有の土地だ」
 わたしは頭に来たが挑発に乗ってしまっては奴の思う壺だ。深く息をつき、気持ちを落ち着かせた。
「どういう根拠でそう主張するんだ?」
「現にあるものがあるじゃないか。お前こそこの境界線が間違っているという根拠を示せ」
 少し時間を遡ろう。
 恐ろしい厄災があった。そのせいで、大陸は海に没し、人類のほとんどは死に絶えた。生き残った人々も将来を悲観して自ら命を絶った。ここが地獄なら、死後に地獄に落とされようとなんのことはない。ついには生き残った人間はわたしと奴のみとなったのだ。少なくとも、わたしの知る限りは。わたしの知るのはこの狭い島のみだ。どんなに遠く離れようとしても、島のどこにいようと奴の姿が見える。そのくらい狭い。そして、何も無い。土地は先述の通り柔らかく、植物を植えるのには向かない。少し強い風が吹けばなぎ倒され、吹き飛ばされるだろう。我々の主な食糧は海鳥と魚だ。わたしは海鳥を捕らえるのが得意だ。手製の罠で次々捕らえる。奴は釣りが上手い。奴手製の釣り針は一度それを飲み込んだ魚を決して逃さない。
 海鳥ばかり食べているとさすがに飽きる。そういう時には、奴に海鳥と魚を交換してもらう、いや、魚と海鳥を交換してやるのだ。時にはこちらの食事に招き、もてなすこともある。その逆もある。こんなことを話すと、まるで奴とわたしの仲良しかのように映るかもしれないが、狭い島にたった二人の住人なのだ。ある程度は仲良くしなければやっていけない。
 しかし、それもある程度の話だ。境界線の問題に関しては徹底的にやり合う覚悟だ。それは恐らく奴もそうだろう。これはお互いの全身全霊を賭けた戦いなのだ。もし屈すれば、敗者は勝者の恒久的な支配下におかれることだろう。自分の領土を持たず、相手の土地で肩身の狭い思いをすることになるに違いない。まあ、もしわたしが勝った場合、そんな真似はせずに、仲良く共生して行く道を探すだろう。あくまでも勝者が誰なのかは肝に銘じさせながらにはなるが。
 わたしは今、奴が居眠りをする隙を窺っている。その間隙をつき、境界線を書き換えてやるのだ。奴が気付かないうちに、奴の目の前まで領土を拡げてやる。奴の愕然とする顔が目に浮かぶ。いい気味だ。
「なにをニヤニヤしているんだ?」
「いや、なんでもない」
 時々考える。もしも奴が死んでしまったらどうなるのかを。その時には、この島のすべてがわたしのものになるだろうが、果たしてそれに意味があるだろうか?
 あるいは、奴も死に、わたしも死んだらどうなるのだろうか?それでも、星は美しく瞬くのだろうか?

No.277

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