鼎談・人類は滅んではいけないのか?

「無駄 vol.1」から、シュウハルヤマ、飯野雅敏、兼藤伊太郎によるおしゃべり。テーマは「人類は滅んではいけないのか?」



兼藤) このテーマはですね、まあ端的に言うとあのグレタ・トゥンベリ、こないだ国連でスピーチして話題になった彼女を見ててなんとなく思ったんですよ。彼女の活動は否定しないし、環境問題は人類全体にとって重要な課題であることは間違いない。もちろん、それと同じかそれ以上に安全な水にアクセスできるかどうかとか、ワクチンや抗生物質を手に入れられるかとか、海面上昇や熱帯のカエルの絶滅よりも直接的に、それも明日明後日に生きるか死ぬかの問題ってのはあるにしても。
で、まあ今は6度目の大絶滅が起きているのではないかと言われるくらいの大量絶滅が起きていて、それは気候変動もそうだけど、人類の手によるものなわけですよ。そこで思ったんです。「人類が絶滅する」のはいけないことなのかな、と。
おそらく、この問い自体が馬鹿げたもので、たぶん別に絶滅しちゃいけない論理的な理由なんてないとは思うんです。あるのかな?しかしながら、少なくとも映画なんかの物語的な想像力は「絶滅=悪」としてきたと思うんです。たとえば「アルマゲドン」は小惑星が地球に衝突するのを回避する物語なわけで、その「絶滅=悪」という点が共通認識になることで成り立つスペクタクルだと思うんです。そこには個人的な死というものしか想像されてはいないのかもしれないけど。
まあ何が言いたいかわかんなくなってきたけど、どうなんだろう?人類滅んじゃダメなのかな?
飯野) 人類が滅んじゃダメなのか、ということは、人類の滅亡が他の動植物ひいては地球全体にとって「良い」ことではないか?ということですね。そうするとどこかこの問いは神学的な響きを帯びてきますね。
だいすけさんの思考実験は、環境保護運動が動植物や自然の保護を訴えながらも、人間の生存を最終目的にしていることへの疑問を表明するものですね。ラディカルな環境保護運動なら、「人間にとっても益になるかぎりで環境保護をする」みたいな口実も否定し、生物や自然はそのままそれ自体大切なので保護するべきだと主張を純化させるかもしれないけど、それならつまるところ人間が滅びた方が多くの他の種が生き残ったり環境が保全される可能性が高くなるのでは?ということになりますね。
そうすると、他の種の生存のために人間が滅びた方が良いと判断する主体は誰なのでしょうか?やはりそれも人間であるにしても、ここで「人間が滅びた方がいい」とする判断は、人間と地球全体との利害をはかる第三者の審級の視点からなされているかのような印象を与えます。要するにノアの大洪水を起こしたような神。現代なら『幼年期の終わり』の宇宙人?
ちなみに、人類が滅んじゃダメなのかどうかの「ダメなのかどうか」には、功利主義的トーンと(つまり人類が滅びた方が他の生命にとっては利益が増す)倫理的トーン(人類は他の生命を圧倒的に殺しうるので、存在自体悪、それらを守るために絶滅するべき)が並存していますね。いずれにせよ人類が自分自身の存在を他者にとっての不利益、あるいは悪と認定するわけですね。だいすけさんの問いかけのこうした含意からは、最近流行?の反出生主義の動向を踏まえておられるような気がしましたがいかがでしょうか?
シュウ) 人類規模で考えるのって難しいですよね。個人なら安楽死とかあるけど人類単位では考えにくい。
兼藤) ぼくが環境保護にどうも乗り切れないのは、そこに人間中心主義がありながらも、それが意識されていないか意識的に無視してるように見えることがなんとも居心地が悪い感じがしちゃうからなんだよね。かと言って、「地球環境のために人類は絶滅するべきだ」って人たちと仲良くできるとも思えないけど。なんとなく「欺瞞」の臭いが苦手なだけで。
良い悪いを判断する主体である人類自体の消滅を判断するってのは実際のところ無理があるというか、やはり別の審級が要請されると思うんだよね。人類が滅びて悲しむ人はいない、なぜならその時、悲しむ人類はいないから。でも、いつかは人類も絶滅すると思うのよ。どんな種も絶滅してきたわけで。どんなに上手にその命脈を保ったとしても、いつか太陽の寿命が尽きて、地球はその炎に飲み込まれてしまって無くなる予定だし。切実ではないとしても、「人類の絶滅」を想像しない、人類が無限に存続すると考えるのもどうなのか、と思う。「メメント・モリ」じゃないけど。
功利主義的なトーンはアニマルライツに接続できそうだね。権利はどの範囲まで想定されるのか。動物たちまで功利主義の範囲を考えると、人類に有益な動物実験はどこまで許されるのか。
確かに人類規模でその存否を考えるというのは難しいところがあるんだと思う。だけど、世界革命論じゃないけど、「人類全体のあり方」が考えられていたんじゃないかと思う。「大きな物語の失効」みたいな話はもう聞き飽きたけど、人類全体の話がしにくくなってる。自国第一主義ってのが多くの国で言われてるし。ただ環境問題はその恣意的な国家の国境線を越えていく問題なわけで、そこで「大きな物語」は復権するのだろうか?
シュウ) 思考実験でいえば宇宙人がやってきて人類を支配し、人間と動物のような関係が宇宙人と人間の間に成立した場合、人間はどのような地位に置かれるか、というものがありますね。
ある主張の最終的な根拠が「人間だから」でしかないのではないか、という問題ですね。
環境問題は今のところ市場の論理に回収されそうな気がします。排出権取引とか。
兼藤) 最近はSDGsとか言われてるもんね。持続可能な開発目標。なんでもお金に結び付けられるものなんだな、と思う。最近だとシンギュラリティが来て人工知能を制御できなくなって、みたいな話が出てきてるけど、そのネタ自体は昔からあって、「ターミネーター」のスカイネットみたいな。「マトリックス」では滅亡はしないけど、人類が「栽培」される存在になっちゃう。滅亡はしなくても、そうした支配下に置かれる、ってのはどうなんだろう?高次な存在の宇宙人との関係と同じで、完全な支配下に置かれる。意外と上手くやっていけたりするんじゃないかな?「インディペンデンスデイ」みたいな宇宙人とか「スターシップトゥルーパーズ」みたいのだといやだけど。
シュウ) 『三体』はそんな感じの小説だった。「マトリックス」の世界で別にいいとすれば、それは結局人類が滅亡しようがしまいがどうでもいいということですね。
飯野) この発想考えたのもシカゴ学派のマネタリストに近いようはネオリベの経済学者ですよねたしか。同じ発想がビルの空中権に応用されてますね。
環境問題はsexyにって要するに企業とかがインセンティブ感じるようにってことだものね
シュウ) セクシー。
飯野) 人間を支配する宇宙人が人間をどう扱ってくれるかと、人間が支配できる動物をなんらかの権利主体として認めるか、って鏡合わせな問いですね。
兼藤) シュウはアニマルライツってどう思う?人間の権利は「人間だから」なの?
シュウ) う〜ん。一言でいえばそうなりますね。あと権利というのは技術的な概念でもあるので、動物に権利を与えることで即動物に関する問題を解決できるわけではないですね。僕はシンプルに人間だから、でいいと思う、最後は。アニマルライツはやはり功利主義の議論なので人権論とはそもそも相性が悪い。
飯野) 従来人間に保障された人権の否定をうながしたりするよね、この功利主義的視座は。シンガーみたいに、類人猿に知能と感性をみとめる一方、重度の障害者には認めないで人間扱いしなかったりするものね。動物権利運動家の多くは、偽善でもいいけど、犬を可愛がる自分ステキみたいな自己愛を感じさせることが多いね。
シュウ) 運動家が目指していることは、動物に人権を認めなくても達成できることが多い。たただその象徴的意味が重要なんだと思う。そうすると結局人(と同視できる存在)であることが重要ということになってくるわけです。こうなると、ではなぜ人間だけ?という問いに戻ってくる。
兼藤) 「なぜ人間だけ?」には答えようがないから、ある意味そこが弱点のように映ってしまうのかもしれない。でも、ぼくも「人間だから」でいいと思うんだ。人間が権利主体であるのは「人間だから」それはすごくシンプルで、変な線引き、知能や感性で線引きするってのも結局恣意的で、「じゃあ、どの程度までは認めるの?」って議論にこそ答えは無いだろうし、「本当にその線引きでいいの?」ってのにも答えは無いように思う。どこまで行っても恣意的なら、「人間だから」ってのが一番シンプルで美しく思えるかな。そういやカズオイシグロの「わたしを離さないで」は感性を認めてもらおうとする話だったね。

兼藤) イギリスには「反出生主義党」ってのがあるらしく、「子育て世代への税的優遇を無くして子どもを作ることを思いとどませる」「動物の苦しみが減るように肉製品に税金をかける」「医師が重病人の自殺を幇助することを合法化する」って政策を掲げているらしい。
シュウ) N国的なやつですかね。
兼藤) N国に票を入れちゃう奴がいるわけだけど、それもまあ権利なんだ、とは思っても、ちゃんと考えろよ、とは思う。
シュウ) 安楽死のアナロジーなんだろうな
兼藤) 反出生主義が話題になるけど、これはなんでだろうね?みんな生きることがつらすぎるのか?
シュウ) 人類の自暴自棄か。結局資本主義の問題だと思うな。資本主義をやめれば解決する問題がほとんどでしょう。まぁ別の問題が出るかもしれないけど。、
飯野) ショーペンハウアーの焼き直しですよね。彼の場合以上にいまの反出生主義者も、世の中苦痛の方が多いから生まれない方がいい、みたいな功利主義が大前提になってる気がしますね。その意味でQOLの思想と表裏一体だし、生に度合いをつける発想はネオリベにはかっこうの後ろ盾になりますね
シュウ) ショーペンハウアーの厭世的な雰囲気とは違って、なんかアグレッシブだよね。そこがネオリベに通ずる感じがする。つまり積極的な思想として提示してきている。
飯野) 反出生主義と安楽死とのアナロジーをシュウくんが指摘していたけど、安楽死も、生きててもなにもできないなら死んだ方がいいみたいな同調圧力に転換される危険性がありますよね。ただ人類の絶滅まで主張すると、理論上はもろともみな滅びるわけで、ある意味では資本主義の犠牲になっている人たちのルサンチマン回収できるのかもしれない。この思想がわりと攻撃的なのはそのあたりのひそやかな共感もひょっとしてあるのかも。
昔、「希望は戦争だ」みたいなこといってたフリーターがいましたけど、戦争=絶滅が起これば、自分も死ぬけど金持ちも死ぬ、道連れにできるみたいな発想。
まあ絶滅が起ころうが戦争が起ころうが資本家は金で切り抜けるだろうからこの発想は誤ってるし、資本主義への抵抗になってないどころか、逆に利用される余地が大きいってことです。環境問題のためにまずは、貧乏人や難民から死んでもらいましょう、一挙に絶滅はできないので、役に立たないやつらから死んでもらいましょう、みたいにね。ひとことでいえば、死にかかってる人(安楽死なら)にせよ、生まれてこない人にせよ、未来の世代にせよ、動物にせよ、ある他者の苦痛をなくすという大義が、もう生まれてきちゃってるけど生きづらい生活を余儀なくされてる人の生きる権利を無視する口実にされてんじゃないの?って感じです。
シュウ) うん、その通りだと思う。現実的な機能はそうなるよな。
兼藤) いまの世界、のどが渇いても差し出されるのは海水だけで、飲めば飲むほどのどが渇く。欠乏感は絶対に満たされることがなくて、欲望が新たな欲望を生み出す。その運動こそが、資本主義を駆動させていて、ぼくらはその歯車に巻き込まれている。チャップリンの「モダンタイムス」みたいに。アタラクシアみたいな、なにものにも駆り立てられない、心の平静こそが目指されるもののはずなのに、ぼくらはまったく逆の方へ向かって走っているように思う。
飯野) その水準の欲望の連鎖に苦しんでアタラクシアに到達できないことを悩む人は(我々を含めて?)消費社会の比較的めぐまれた住人ではとも思いますが(笑)。アタラクシアは礼節とは違うけど、衣食が足りないというか、「最低限度のもの」にさえ困窮しているひとは心の平静どころじゃないでしょうね。衣食の足りるブルジョアインテリが、衣食の足りないプロレタリアートに心を平静にすれば貧乏も我慢できるなんていいだすんじゃ最悪だ(笑)。
兼藤) 心の平静は目指されるべきもので手段ではないよ。痛みや苦しみを忘れるための麻酔にしちゃダメだ。もちろん、「心頭滅却すれば火もまた涼し。そう思えないのはお前の心構えがなっていないからだ」って言う奴はいるだろうし、いまもいるわけだよね。「努力が足りない。みんな苦しいけど頑張ってるんだ。甘えたことぬかすな。自己責任だ」って。あるいは、アルコール度数が高くてすぐに酔えるストロングゼロみたいな酒でみんな現実逃避しちゃう。それで大企業はまた儲けちゃうわけだ。ブルジョアインテリのすべきことは、このシステムをどうするのか、を考えることだし、それをみんなに、話の通じないような人にも、セックスと酒のことしか考えていない人間にまで届けようとすることだと思う。ただ口で言うのは簡単だけれど、実際それはどういうことなのか。
飯野) 「話の通じない人、セックスと酒のことしか考えてない人」、理屈じゃ通じない大多数のひとたちを動かすには、心を懐柔することが必要ですね。システムを変えるには「パンピー」の懐に取り入るマキャベリ的な権謀術数が実は必要かもしれない。最近は特にそう思いますね。残念ながら保守政治家の方が圧倒的に長けてる戦術…。余談が続きますけど、そういうのってテクノクラートの世論操作と紙一重だから危ういし、左派は建前上も生理的にもに嫌がるし苦手なんですよね。
でもトランプやアベ並みの力量で逆方向に世論操作でもしないとトランプやアベ支持の風潮は覆せないのかなぁとも思わざるを得ない。語弊しかないけど、こっちもフェイクニュース流して同じ土俵に立つとか。
それくらい悲惨な時代認識です
シュウ) 人類という言葉の問題隠蔽機能、イデオロギー性の問題。
兼藤) 「人類」って言葉で問題が覆い隠されちゃうことってのはあるかもな。これは人類全体って方が優先されちゃって、個々の問題が軽視されちゃうってこと?
シュウ) まぁそんな感じかな。いろんな問題がある時に「これは日本人全体の問題だ」とか言って問題がすり替えられるイメージ。
兼藤) 解決する主体である人がそれを全体化して責任を免れる感じ?
シュウ) そんな感じですね。議論のレベルにもよるけど。
飯野) 極端な例を出すと、革命で人殺していいか、ってことですね。階級の差、利害の違いを隠蔽しちゃうんですよね。
兼藤) じゃあですね、「ダークナイト」の船の問題。二隻の船があって、爆弾が仕掛けられている。時間が来ると、二隻とも爆発し、沈没して、乗っている人間は全員死ぬ。それぞれの船には、相手の爆弾を爆発させる起爆装置がある。どちらか一隻が爆発した場合にはもう一隻は助かる。映画では船に乗っているのが一方に普通の人たち、もう一方には囚人たち。さあ、起爆装置のボタンを押すのか?って状況だったけど、これがもし、囚人たちでなく、世界の富の大半を持つ大富豪たちとその家族(相続人)だったとして、自分が普通の人たちの船に乗っていたら、しゅうとまさとしはボタンを押す?それとも押さない?社会の中での競争に勝ち抜く金持ちにはサイコパスも多いから、むしろ向こうが躊躇わずにボタンを押すかもしれない。現実として、貧乏人から搾取してる大企業の重役たちはゆっくりとその起爆装置のボタンを押しているみたいなものだから、躊躇うことなんてないかもしれない。でも、向こうには彼らの家族も乗ってる。まだ幼い子どももいるかもしれない。押す?押さない?
シュウ) この種の思考実験もいろいろと危うさがあるのですが、それを措けば、金持ちよりも貧乏人の利益の方が優先されるべきでしょうね。ただ一瞬で金持ちに先に押されると思う笑
飯野) 金持ちはこちら側のボタンにすでにあれやこれや仕掛けてる可能性大ですね(笑)。
シュウ ボタン押すのに一兆円くらい必要そう。でも確かに真面目に考えるべき問題で、その思考実験の前提にあるボタンと起爆装置って誰が作ってるの?そもそも爆弾仕掛けてるのは誰?って思うんだよな。もちろん思考実験はそういう側面に焦点を当ててるわけじゃないんだけど。人類は滅んでもいいのか、にも似た匂いを感じる。
飯野) そもそも金持ちと貧乏人があたかも対等な立場にたってるみたいな前提が思考実験だし、思考実験の限界ですよね
シュウ) 金持ちと貧乏人どちらを優先するか、という問題なら貧乏人に決まっている笑
飯野) まったく同感、僕は貧乏人だしね笑
兼藤) 間違いなく金持ち船はすぐに押すと思うのよ。ジョーカーは人選を間違ったね。囚人じゃなくて金持ちにすべきだった。そしたら醜さが露呈されることになったけど、バットマンは金持ちの醜さなんてすでに知ってるだろうから別にそれに打ちのめされなかったかもしれないけど。でも、それじゃあ物語的には上手くいかないか。映画では普通の人たちも囚人たちもボタンを押さないけど、あんなことはありえるだろうか?
兼藤 じゃあさ、トロッコ問題は?暴走するトロッコ、止めることはできない。分岐の先には5人の金持ちへ続くレールと、ひとりの労働者へ続くレール。どうする?
シュウ) その思考実験もなにか思考を明晰にするのかな〜。いろいろな要素が…(笑)。まぁ金持ちにしとくか。しかし現実には金持ちは1%の人々であり、トロッコは残り99%の人々に向かっている。しかも金持ちが死んでも財産は相続されるだけというね。
飯野) その通りですね(笑)。
兼藤) じゃあさ、分岐の先、片方が派遣労働者で、もう片方が竹中平蔵だったら?
シュウ) 派遣の人全員(笑)?竹中が権力を握る前ならなぁ。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいになるけど。
飯野) 竹中平蔵がいなくても竹中平蔵ポジションの学者は出てきてたでしょうけどね
シュウ) 確かに。
飯野) 金持ちが死んでも財産は相続、というところに根本的な不正がありますよね。相続されるのは財産だけじゃなく、文化資本、社会関係資本なんかもそうだし。語弊を恐れずに理論的な水準にかぎっていうと、生まれた子どもを親元から引き離して一律公的に教育する、みたいなことしないと相続や世襲の不正は根本的には解消されないかもしれませんね。スパルタみたいに。所得税の累進課税が機能していたとしても、ごく部分的な格差是正だし、財産以外の相続対象はコントロールできないし。極論ですけど。
シュウ) 社会主義からもリバタリアンからも相続制度は評判が悪い。実際相続制度の理論的正当化は相当難しい。付け加えればロールズ的な正義論とも相性が悪い。
飯野 相性いいのはハイエクくらいじゃない?相続の不平等みたいなのを受け入れるのが人としての高潔な態度、とかいいそうですもんね
シュウ) ハイエクって人は不思議な人ですごくコンサバと結びつくから現実はほぼ否定しない。相続も社会の多様性だの数世代の便益だの家族の本能だの言って肯定する。遺産を残す自由って言うんだけど、要は政府の規制を否定するということ。このあたり、ノージック的なリバタリアンと違っていわゆるネオリベの祖とされるゆえんがある。
飯野) ハイエクって、経済合理性の観点からの市場原理の擁護みたいな理論的な建て前よりも、不条理を受け止めるべき、みたいな個人の倫理や道徳の次元で話してるイメージ
要するに最初からもたざるものは我慢するべきってことだよね。
シュウ) 身の丈にあった人生。ちなみに相続制度は我々とも相性が悪い。
飯野) その心は?
シュウ) この三人はあまり相続制度を評価しないということ(笑)。
でも子供ができたら違うのかな?子どもできて将来とか未来とかの考え方が変わったのか聞きたいね。
飯野) 子どもができたらものの見方変わるのか、どうなのかって。まさに子どもの問い、僕は20代前半、それこそずっと思考実験として考えてました。子どもが万一できたら相対的にニュートラルには考えられなくなるだろうから、いまのうちに考えるのがよいかなと思って
シュウ) 年とると保守的になるのって子どもとか家族ができるからなのかね? 僕は体力とか感覚が鈍感になるとかいう身体的な理由じゃないかと思うんだけど。
飯野) じゃあ子供や家族はあんまり関係ないのかしら?子どもがいる伊太郎さんはいかが?
ほんとに多感な時期に取り入れて身についた知識と経験にこだわって、だんだんそれで甘んじちゃうのも保守化の要因でしょうか。音楽とかも中高生の頃はいろんなジャンル聞こうと努力したけど、最近はあまり慣れないジャンル聴こうとしなくなっちゃうもんね。未知のものに慣れるのが億劫で。
兼藤) まず相続だけど、現時点でぼくが相続するような財産は無く、わが家がなにかしらを相続するにしてもそれは財産ではなく負債であるので、バトンを繋ぐようなものも無いし、可能性は低いけどぼくが財産を作ったとしても、それを引き継がせたいとはこれっぽっちも思わないなあ。
子どもが産まれて変わったのは自分の「死」についてで、比較的高い確率で自分よりも長生きするであろう生き物、自分が死ぬ瞬間にそこに立ち会うであろう存在がいることで、「死」が今までよりも少しリアルになったように思う。自分が死んだあとも世界は続いて、そこをこの人たちは生きていくんだと思うと、自分の存在しない世界がリアルになった。理屈ではわかってたけど、そこまで生々しく感じたことはなかったと思う。その恐怖を和らげるために、遺言みたいなものはある程度有効なんではないか、と思う。自分の死後の世界(あの世じゃなくて、自分の存在しない世界)に向かって、何かの影響が及ぼせる、ということで、その存在しないことの恐怖から少し逃れられるような気がする。
あ、財産らしい財産は無いけど、ぼくの本、それについては前にも言ったかもしれないけど、子どもたちが成人しても興味を示さなかったら、シュウと雅敏にしかるべき処分をしてほしいと思ってる。ふたりなら間違いないでしょう。
「子どもができたら」の不安は忌野清志郎も言ってて、もうロックができなくなるかもしれないって曲作りまくったって言ってた。まあ、それで保守的になるならその程度なんですよ。たぶん。ぼくとしては、小説を書く上での新しい視点が増えた、というような感覚。ネタにできることが増えた。
新しいものに手を出さなくなると言う意味での保守化の要因は、おそらく環境にあるんじゃないかな。決まりきった相手と、決まりきったことしてると新しいことを始めるのって億劫になるもの。そのまま、別に新しいことなんてしなくてもなんとなく日々は進んでいく。そのままでもいい。そこで何かするのって億劫だよ。
まあ、体力的なものが影響してるのかなあ。単純に若い頃の方が環境の変わる機会が多かったようにも思うし。
音楽に関してはぼくは今も新しいものを探そうと努力してるよ。シュウには「若者にこびてる」ってからかわれるけど(笑)。音楽にしろ、アートにしろ、本にしろ、常に新しいものを探してる。じゃないと退屈しちゃわない?
シュウ) 死か。死と退屈。子供がいればしばらく退屈しないのでは?
兼藤) まあ、子どもの変化を見てるのは刺激的だけど、やっぱり自分の変化を感じたいんだよなあ。自分が変化しないと退屈だよ。
シュウ) なるほど。
飯野) 子どもができたことで、自分の死をみとる存在がいること、自分の死後も世界がつづくことのリアリティを感じるってことですね。それって、血が繋がって自分にいくぶんか似た子どもだからより一層その感じが強くなるのかしら。
とにかく、なるほどと思いました。ひとは死ぬ瞬間には死んでいないから「わたしは死んだ」っていえないし誰かに看取ってもらって死んだって認定してもらわないと死ねない。ブランショですけど。
シュウ) がんばって生きていこうと思いました。
飯野) 生きましょう、この反動の時代を。

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