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親知らず


 妻が不機嫌だったのはぼくの浮気がバレたからとか、妻が仕事で些細だけれどどうも気になって仕方がないようなミスをしたからではない。あいにく、ぼくは浮気をしていなかったし、妻の仕事も万事順調だった。妻の不機嫌の種は、親知らずを抜いたあとが痛かったからだ。
「ちょっとですけど」と歯科医は妻の口の中を覗きながら言った。「親知らずが虫歯になってますね。生えている角度も良くない。歯ブラシが届かないから、今に大変なことになりますよ」
「それじゃあ」と妻のは言ったわけだが、口に何か器具が差し込まれていたので完璧な発音とは程遠かった。「どうしたらいいんです?」
「抜いてしまうんですな」と歯科医。
「はあ」と妻。
 まあ、ぼくはその場に居合わせたわけではないので、こんなやりとりがなされたのかどうかはしらないが、とりあえずそんな理由で妻は親知らずを抜歯することになった。
 何千年か先、妻の頭部化石を発掘した考古学者はこう言うかもしれない。
「ふむ、抜歯をしていますな。これはおそらく宗教的に高い位にあった人の骨でしょう」
「当時も女性は高い身分につけたのですね?」
「もしかしたら巫女かもしれない」
「お母さんに話したら」と抜歯の前日妻は言った。「親知らずを抜くとすごく腫れるって。痛みも中々引かないらしい」
「お義母さんに話したんだ」とぼく。
「いけない?」
「まあ、親知らずだからね」
 妻はクスリとも笑わなかった。「ねえ、そんなに不安になることはないさ。歯の一本じゃないか」とぼくは明るく言った。
「あなたは」と妻はため息混じりで言った。「親知らずを抜いたことがあるの?」
「いいや」ぼくは首を横に振った。
「世界には二種類の人間しかいないんだわ」と妻。「親知らずを抜いたことのある人間と親知らずを抜いたことのない人間」
 かくして妻は親知らずを抜いたわけだ。帰ってみると、頬を腫らした妻が待っていた。
「どうしたの?」
「なにが?」
「そんなにほっぺたを膨らませちゃって。なにか怒ってるの?」
 妻は深い深いため息をついた。またもや妻はクスリとも笑わなかった。「もう寝るわ」
 親知らずを抜いてからというもの、妻は不機嫌この上なかった。職場でも不機嫌だったのだろう。たぶんそのせいで、些細なことに腹を立て、同僚ともめることもしばしば。そうしてまた不機嫌さが深みにはまっていくという悪循環だ。ぼくはできるだけ彼女の機嫌を損ねないように細心の注意を払いながら生活をした。まあ、普段だって出来る限り妻の機嫌を損ねまいと注意をしているのだけど。
「まだ痛む?」
「ちょっとね」
 妻の不機嫌が解消されるまでに一週間ほどかかっただろうか。
「もう痛まない?」
「そうね」
 ぼくは妻をじっと見詰めた。
「なに?」
「君はぼくがこれまで知っていた君よりも歯が少ない」
「そうね」と妻。「だから?」
「なんだか不思議だ」
「そう?」
 ぼくは自分が幸せだと感じた。ぼくが親知らずを抜いた時に、その痛みに苦しむぼくに同情してくれる人がいるのだ。





No.143

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