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男爵

 電車に乗っていると時折、上向き口をポッカリ開けて寝入っている人を見掛けるでしょう?そういった人が幸せか幸せでないかはさておき、電車に乗り、吊革に手をかけて目の前に座っている人を何気なく見たら、おじさんがまさにそんな具合に眠っていたのです。スーピースーピー寝息を立てて。その様子をなんとなくボンヤリと見ていたのです。特にその暗く開いた口元を。ちょうど手持ちの本を読み終えてしまって、何もすることが無かったにしても、なぜそんなものを見ていたのかは自分でもわかりません。別に見ていても楽しいものではないのに。その時です。男爵と出会ったのは。
 最初は蝿かなにか、小さな虫だと思いました。小さな黒い点がもぞもぞと眠っているおじさんの頬を登っていくのです。その進路は迷うことなく口を目指しているように見えました。ああ、おじさんの口に入っちゃう、と思った時です。その黒い点が止まり、こちらを見たのです。それが男爵でした。
男爵はちょうど狩りから帰って来たところで、馬に乗り、肩には銃をかけていました。こちらの視線に気付いた男爵は会釈をしました。こちらも会釈を返しました。そして、男爵はおじさんの口の中へ入って行ったのです。
 思わずおじさんの口の中を覗きました。中には趣味の良い家具、絨毯が敷かれています。男爵は着替えをすませ、くつろいだ様子です。
「こんにちは」男爵は言いました。
「こんにちは」
 不躾にもいきなり彼の生活空間に上がり込んだにも関わらず、男爵は歓迎してくれました。そして様々な話をしてくれたのです。
 男爵の話によると、男爵は以前は領地を持っており、そこからの収入で暮らしていたそうです。「猫の額ほどの土地ですよ」と男爵は言いましたが、それが謙遜から出た言葉なのか、事実をありのままに述べたものなのかは定かではありません。男爵はとても小さいので、本当に猫の額ほどの土地でも十分ではないかと思えるくらいでしたから。
 しかし、革命が起き、その混乱で領地をほとんど失い、ほうほうの体で今の住居にやってきたのだそうです。男爵がとても小さかったのは幸いとしか言い様がありません。もしもう少しでも大きければ、おじさんの口の中は手狭でとても暮らせたものではなかったでしょう。
 領地は失われ、収入はほとんど無くなりましたが、今の住居ならば食料に困ることはないそうです。おじさんが口にするものから少しずつ分けてもらうのだそうです。
「もう少し上質のものを食べてほしいのだがね」と男爵は首を振りました。「まあ、贅沢は言えませんよ」
 もっと男爵の話を聞きたかったのですが、駅に着き、おじさんが起きて降りてしまったので、それ以上は無理でした。
 男爵と会うことは二度とありませんでした。


No.676

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