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怒り
自分のなかに怒りの感情が無いことに気付いた彼女は驚いた。人間であれば、怒りの感情を持つことは自然なことだ。誰だって怒りを持つ。彼女はそう思った。顔に鼻があることや、空に月が浮かぶことのように。その当たり前でとても自然なものが、彼女には欠けているのだ。それまでの人生で、一度として怒ったことのない彼女だったが、それは怒るに足るような事態が自分の身に降りかかったことがないからだとばかり思っていた。あるいは、他の人に同調し、同じように怒って見せたことはあったかもしれない。しかしながら、それは間違っても彼女自身の怒りではなく。そもそも怒りではなく、ただの模倣に過ぎなかった。彼女は一度として怒ったことがない。その事実に、彼女は気付いたのだった。
だから、彼女は驚いた。人間が自然に持つであろうものを自分は持っていないのだ。記憶をくまなく探し、あれは怒りだったのではないか、これは怒りだったに違いないと、あれこれ思ってみても、誠実に判断するのなら、、そのどれもが怒りではなかった。事実として、彼女は怒ったことがなかった。
しかしながら、鼻を失ってもなお生きていかねばならないように、怒りを持たずとも生きていかねばならない。
「鼻が無いのはちょっと困るかもしれないけど」と彼女は思った。「腹が立たないのなら、それに越したこともないかもね」
カフェで店員がオーダーと違うものを出しても、エレベーターで足を踏まれても、美容室で変な髪型にされても、彼女は怒らなかった。上司が理不尽な命令をしても、恋人が予定をすっぽかしても、ちっとも腹が立たなかった。我慢する必要すらなかった。彼女には怒りが無い。それらについて、事実を事実として受け止めるだけで、それらは彼女に感情の起伏をもたらさなかった。
それ以外の感情はどうかというと、喜びも悲しみもちゃんと感じるのだ。恋人からサプライズのプレゼントをもらえば嬉しいし、殺処分される犬のニュースを見れば悲しくなった。ただ、怒りだけが無い。
そうして、彼女は生きて死んだ。怒りの無い人生について語るべきことなど、きっとこのくらいのものだ。
No.749
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