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鏡の中の男

 朝の慌ただしい時間のことだ。朝食を済ませ、顔を洗い、歯を磨いて、髪を整えていると、違和感を覚えた。わたしの目の前にある、洗面台の、鏡の中についてだ。本来ならわたしと同じ動作をしていてしかるべき鏡の中の男が、そうしていないのだ。わたしは櫛を手に、髪を撫でつけているのに、鏡の中の男は櫛こそ手にしているが、両腕をだらりと垂らし、微動だにしない。どうにも浮かない顔をしている。もちろん、その頭髪は整えられることなくボサボサだ。
 わたしは驚いた。なにしろそんなことは初めてのことだったからだ。言うまでもなく、鏡の中の男はずっと従順だった。わたしがこの世に生を享け、それが自分自身の姿であると認識してからこの方、一度たりともわたしを裏切ることも、反抗することもなかった。その気配すらなかった。あるはずがない。
 しかしながら、目の前の現実は現実なのだ。彼はわたしの動きに従っていない。
「おい」と、わたしは彼に声を掛ける。「どうしたんだ?髪をとかしてくれ。時間がないんだ、遅刻するぞ」
「ああ」と、彼は心ここにあらずといった様子だ。「わかってる。わかってるよ」
 わたしは努めて冷静であろうとする。語気を荒げてはダメだ。「なあ、どうしたんだよ?お前らしくないじゃないか。さあ、今日も張り切って行こうぜ」
「わかってる」彼は力なく言った。そして、櫛を持った手を上げ、髪にそれを通そうとして、またそれを元に戻した。「ダメだ」
「なにがダメなんだ?」わたしは櫛を洗面台に置き、息をひとつつく。「さっさと支度をするんだ。今日は大事な商談があることはお前もわかっているだろう?」
「わかってる」彼は言う。「でも、ダメなんだ」
「なにがダメなんだよ?言ってくれ。改善できるものなら改善しよう。不満があるなら言ってくれよ。ほら、俺とお前の仲じゃないか。いままで、ずっと一緒にやって来たんだ。ほら、遠慮するなよ」
 彼は俯き、黙り込んだ。わたしは彼が何か言うのを待つ。彼が何か言うのを待っているのを全身で表しながら、彼が何か言うのを待つ。それは一見待っているように見えるかもしれないが、どちらかと言うと脅迫に近いだろうし、それは彼も、わたしも理解している。
「君ひとりで行ってくれないか」と、彼は重い口をやっと開いた。やっと出て来た言葉がそれで、わたしはひどく憤慨した。
「そんなことができるものか。俺とお前は一体じゃないか!さあ、さっさと支度をするんだ」そう怒鳴り、鏡に顔を近づけ、彼を睨みつけた。彼は怯えたように身をすくめている。しかしながら、わたしにできるのはそこまで近づく事だけなのだ。鏡のその表面を越えて彼の側に行くことなんてできない。本当なら、一発殴りつけてやりたいところだったが、それは叶わぬ望みなのである。それでも、彼は怯え切っていた。
「無理だ」と、彼は呟いた。「無理だよ」
「無理なものか。今日までずっとそうやって来た」
「でも、もう限界なんだ」そう言うと、彼は鏡の外に向かって歩き出した。
「どこに行くんだ?」わたしは慌てた。鏡に顔をぴったりとくっつけ、彼の姿を見失わないようにしようとした。しかし、こちらのそんな奮闘にはお構いなしに彼は行ってしまう。
「どこに行く気なんだ?どこにも行けないだろう」
「君なら」と、彼の姿は鏡の中からもう見えない場所に行ってしまい、声だけが聞こえてきた。「ひとりでも大丈夫だ。ごめん。いままでありがとう。さようなら」
「待て。待ってくれ」わたしは無人になった鏡に向かって叫んだ。彼にもその叫びは聞こえていただろうが、彼が戻って来ることは無かった。
 そうして、彼が行ってしまって、ひとり残されたわたしは、自分がひどく空虚なものになったような気がした。あるいは、本当に空虚なものになったのかもしれない。抜け殻のように。
 しかしながら、彼の言ったように、その空虚な抜け殻のわたしでも、生活に困ることは無かった。取引相手と商談をし、同僚と談笑する。問題ない。ただ不意に、虚しくなるだけだ。そうして、うわべだけでも生きていけることが。
「どうした」と、同僚が尋ねる。
「いや」と、わたしは答える。「なんでもない。大丈夫だ」


No.509


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