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レインメーカー

 雨乞いに許された失敗は二度までだ。一度目の失敗では左手を切り落とされ、二度目には右手を奪われる。そうして三度目の失敗で首をはねられる。だから、二度までしか失敗は許されない。四度目の失敗は存在しない。
 雨乞いの仕事は雨を降らせることだ。もちろん、日照りが続いた時が出番である。人がその力で雨を降らせられると考えられていた時代。灌漑技術はまだ未熟で、農作物を育てる命綱は雨だけだったのだ。
 命懸けの仕事であるにもかかわらず、雨乞いのなり手には事欠かなかった。失敗の代償は確かに大きいが、それ以上に成功とともにもたらされるその報酬は人々を無謀な賭けに出させるのに余りあるほどだったのだ。それこそ、金銀財宝が雨ごとく降るのだった。なにしろ、人々にとって雨の降る降らないは死活問題なのだ。
 その若者は雨乞いになった。そうならなければ、彼は飢え死にしていただろうからだ。若者の生まれ故郷の土地は痩せていて、人々の腹を満たすほどの力を持っていなかった。赤ん坊は簡単に死んだし、年寄を山に捨てるような風習まであった。若者がそういった状況についてどう思っていたのかはわからない。心痛めていたかもしれないが、そうでなかった方がありそうな話ではないだろうか。彼自身、いつそういう目、つまり、おおざっぱに言ってしまえば「死」ということに遭ってもおかしくはなかったのだ。神が憐れまない世界に憐憫など存在しない。
 若者は雨乞いの師匠についてその技術を学んだ。それは大方師匠の身の回りの世話でしかなく、たまに教えを受けたとしても、それは何かの願掛けのようなものに過ぎなかった。第一、その師匠だって、片腕を失っているくらいなのだ。だからこそ、日常身の回りのことに若者の手が欠かせなかったのだけれど。
 その師匠ですら、自由自在に雨を降らせられるというわけではないのだ。とはいえ、それくらいならばまだいい方なのだ。腕の悪い雨乞いなら、すぐに首を失っている。もちろん、雨を降らせられない悪い腕はすでにその時には失われている。
 そうして若者は雨乞いの技術とも言えない技術を学んだ。師匠が三度目の失敗をした後、ついに若者は雨乞いとなった。師匠の死を、若者は悲しがらなかった。それは雨乞いであるならば当然のことだし、師匠がいなくなったおかげで、若者は雨乞いとなれたのだから。師匠の死に、若者は感謝すらしていた。
 雨乞いとなった若者は、じつに優秀な雨乞いだった。なんと、一度として失敗をしないのだ。干魃に喘ぐ村に呼ばれ、そこで雨乞いを若者がすると、小一時間もしないで雨が降った。若者が儀式をしている最中に降り始めることすらあった。人々は若者に多額の報酬を払った。若者はあっという間に一生では使いきれないほどの財産を築いた。それでも若者は雨乞いをやめなかった。実際、雨乞いになった者の大半はそうしてある程度財産を得ると雨乞いを辞めるのだった。財産があるにもかかわらず、命の危険を伴う雨乞いなどという職業を続けるのはまともな思考からは馬鹿げたことだ。
 しかし、若者は、どんなに財産を増やそうとも雨乞いを辞めなかった。そして、一度として失敗をすることのないまま、年老い、雨乞いのまま死んだ。
 彼の死んだその日、土砂降りの雨が降った。まるで空が涙を流しているかのようだった。そして、その翌日から、どんな古老の記憶にもないほど長い日照りが続き、農作物はことごとく枯れ、多くの人間が飢え死にした。

No.353

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