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四角い空

 その頃はまだ幼くて、漢字は数える程度しか覚えていなかったから、そこになんと書いてあるのかを、ぼくには読めなかった。
 それなのに、そこにそれが書いてあったのを覚えているのが少し不思議だ。何らかの文字であり、意味を持っていると知らなくとも、それを文字として認識し、記憶を遡ってそこになんと書かれていたかを理解することなど可能だろうか。どうもできなさそうな話だ。その当時のぼくの眼に、意味の無いものとしてうつったそれは、意味の無いものとしてぼくの中に留まり続けるだけだろう。なぜならそれは意味の無いものと認識され、意味の無いものとして記憶されるだろうからだ。もしかしたら、それは記憶に残りすらしないかもしれない。意味の無いものを記憶することなどできるのだろうか。そんなものに、のちのちになってから意味を与えることなどできまい。だから、そこになんと書いてあったのかがわかるということは、ぼくはその文字が読めるだけ大人になってから、またそこに行ったのだろう。だが、あいにくその記憶もない。あるのは、そこには「非常口」と書かれていて、そこにいたぼくには、それが読めなかったという、そういう記憶だけなのだ。
 ぼくにはその非常口がいったいどこにあったのか、その建物がどんな建物たったのかわからない。静かな場所で、人の気配はなかった。もしかしたら、それは廃墟だったのかもしれない。
 階段を降りた地下に、その非常口はあった。非常口と書かれた扉の前に座り、階段の上の方を見ると、四角い空が見えた。それは自分がいる世界とは別の世界のように思えた。井戸の底から見上げる空がどんななのかはわからないけれど、もしかしたらそれと似ていたのかもしれない。
 ぼくはひとり、別の世界に迷いこんでしまったような気分になった。心細くなった。その心細さが、お尻のあたりをくすぐった。ぼくはそのぞくぞくする感覚が気に入った。ぼく抜きの世界。それはどんな世界だろう。ぼくには決して知ることのできない世界。なぜなら、そこにはぼくはいないからだ。
 四角い空は、その入口のように見えた。もちろん、階段を昇って行けば、簡単にそこへ行くことができる。心細さは解消され、ぼくはぼくのいる世界に復帰する。だから、ぼくはそこで膝を抱えて座り、じっと空を見ていた。ひとりきりで。
「ひとりじゃあないわ」
 そうだ。ぼくはひとりではなかった。ぼくの傍らには、女の子がいた。ぼくと同じくらいの年齢の、近所に住む子だ。母はぼくにその子と遊ばないようにと言った。なぜだかはわからない。
 なんだかぼくにはわからないことばかりのようだ。
 とにかく、母はそう言っていたのだが、ぼくは彼女と時折一緒にそこ、非常口の前にいた。ぼくと彼女は並んで座って、ただ空を眺めていた。何も話さなかったように思う。考えてみると、ぼくは彼女の名前を知らない。名前を知らなくても、そこに並んで座るのになんの支障もなかった。顔を思い出そうとしても、ぼんやりと霞がかかったようで、その像ははっきりとした焦点を結ばない。
 彼女はぼくの手に自分の手を重ねた。少し湿っていて、温かい手だった。ぼくは彼女の顔を見た。そして、ぼくからか、彼女からかはわからないけれど、唇と唇を触れ合わせた。ぼくはまだ幼かったから、その意味するところはわからなかった。
「今ならわかるの?」
「どうかな?」
 彼女はこのことを覚えているだろうか。それとも、ぼくひとりが覚えている、孤独な記憶なのだろうか。
「どっちだと思う?」
「わからないよ」
「わからないことだらけだね」
「そうだね」
 しばらくすると、彼女は引っ越してしまった。さよならも言わずに。どこへ行ってしまったのかもわからない。彼女がいなくなってしまって、ぼくは寂しかったような気がする。それからもうずっと、このままずっと、彼女とは会っていない。
 もちろん、ぼくはまだ幼かったから、その感情がなんなのかもわからなかった。

No.334

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