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簡単なお仕事

 まだ学生だった頃、いくつかのアルバイトをしたことがある。仕送りはあるにはあったが、それだけでは足りない。実家は自営業で、父と母で青息吐息経営しているような状態だった。仕送りがあるだけ感謝しなければならない。もちろん、仕送りだけでとりあえずの学校生活は送れただろうが、それは健康で文化的な最低限度の学校生活と言えるだろうか。若いとは金のかかることなのだ。サークル、コンパ、などなど。
 愛想の無い人間だから、接客業は向かない。レジ打ちをやって「ありがとうございました」と、たいしてありがたくも思ってもいないのに笑顔で言うなんてことを考えるだけでぞっとした。だから、自然とと引っ越し業者やガードマンのような肉体労働が多くなる。体力的にはきついが、若さがあればなんとかなった。若いということには一長一短がある。もちろん、何事にもあるだろうけれど。
 その中の一つで、あるメーターを見張る、という仕事があった。
 あるメーターとは、とにかく「あるメーター」で、それが何のメーターだったのかはいまだにわからない。
『簡単なお仕事です』に惹かれたというのが志望動機だ。できるだけ簡単な仕事がいい。生来の怠け者のせいか、いや、誰だって難しい仕事よりも簡単なものを選ぶに違いない。困難を乗り越えて達成を目指すのは物語の中か相当のマゾヒストだけだ。生来の怠け者にはそう思える。
「このメーターを見ていてほしいんだ」というのが仕事内容のほとんど全てだった。簡単な面接だけで採用された。志望動機を尋ねられるかと思って嘘をこさえておいたが、それを使うこともなかった。すぐに合格ということになり、仕事内容を説明されることになったが、それも簡単に終わった。「で、この針が百を越えそうになったら知らせてくれ」なるほど、簡単なお仕事だ。
「百を越えるとどうなるんです?」と一応尋ねた。
「越えたら報告するのが君の仕事なのだから、それを知っていても何の得も無いのだが」と前置きされた上で「大変なことになる」とだけ言われた。
「大変なことって?」
「知らない方がいい」
 なるほど、簡単なお仕事だ。
 そうして早速仕事に取りかかることになった。と言っても、やることなど無い。メーターを見ていることだけしかできない。針は絶えずピクピクと動いているが、それは大体三十から四十辺りを動いていて、まれに六十辺りまで動くことがあるが、その動きはゆっくりだ。しばらくそこでピクピク動いたかと思うと、また元の三十から四十辺りに戻る。初日はメーターから目が離せなかった。少しよそ見をしているうちに針が動くのではないかと気が気でなかったのだ。簡単かもしれないが、それなりに神経はすり減らされた。
「異常無し」そう報告して家路につくまで、息をつけなかった。
 が、そんなのは最初のうちだけだ。だいたい初日と同じような針の動きしかしない。すぐに慣れてしまい、文庫本を持ち込むまでになった。
「異常無し」なんとも楽な仕事だ。
 そんなある日だ。いつも通り、のんびり文庫本を読んでいた。何気なくメーターを見ると、針がぐんぐん動いているのだ。それはもう八十の手前まで来ている。報告すべきか、いや、何事も無かったようにまた元に戻るのではないか。少し様子を見るか。手遅れになるのではないか。様々なことが頭を駆け巡った。その間にも針を動きを止めず、九十を越えた。報告しなければ。もう百も近い。
「針が百を越えそうです」
「なに?」
「百を越えます」
「本当か?」
「はい!」
「大変だ」
「どうしましょう?」
「報告に行ってくる。君はここに残りたまえ」
 そうしてひとり取り残されてしまった。残ってどうすればいいのかの指示を仰ぐ暇さえなかった。針は百を越えている。大変なことが起きるはずだ。が、何も起こらない。何も起こらないからといって安心はできない。何かが起こる前はまだ何も起こらない状態なのだ。破滅は突然訪れる。その前には何も起こっていない。
 どうしたらいいのかわからなかったので逃げ出した。後ろを振り返ることなく、一目散に。そして、二度とそこに出勤はしなかった。だから、何が起こったのかはわからない。

No.261

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