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どこか遠くへ

 彼女が死んでしまったのかと思った。パラソルの作る影の下、デッキチェアに丸まるように横になったその姿は、リスとか、そういう小動物の死体のように見えた。夏の強い日差しに照らされたその白い肌は、まるで生気を感じさせない。ぼくは彼女のためにもらってきたダイエットコークをテーブルに置くと、彼女の口元に耳を寄せた。微かだけれど、確かに息をする音が聞こえた。彼女は生きていた。誰も入っていないプール。デッキチェアで居眠りをするだらしない体形のおじさん。遠くに浮かぶ入道雲。揺れる水面が反射する光が彼女の白いふくらはぎの上で踊る。彼女は生きていた。
 耳に息を吹きかけられ、くすぐったくて飛びのいた。
「なにしてるの?」彼女は身を起しながら言った。
「死んでしまったのかと思った」と、ぼくは言った。
「生きてる」
「うん」
「安心した?」
「そうだね」
「人は簡単に死んじゃうからね」と、彼女は簡単に言った。
 ぼくはしばらく黙っていた。そして、「そうだね」と言い、レイバンのサングラスをかけ、海と空の混じり合うあたりを眺めた。ただ、カッコつけたかっただけだ。
 そのひと月ほど前に兄が死んだ。大学の卒業を間近に控えた時のことだった。しかも、その卒業は主席でのものになるはずだった。我が一族の栄光ある歴史にまた輝かしい業績が加わる、はずだった。はずだった。そうはならなかった。兄は死んだ。簡単に。
 それは夜ではあったけれど、見通しの良い緩やかなカーブ、晴れていて、きれいな満月の出ている夜だった。スピードを出しすぎた兄の運転する車はそのほとんど直線と言ってもいいカーブを曲がれず、道路わきに立っていた木に衝突したのだ。兄のほかにケガ人はいなかった。気の毒に思われるかもしれないのはそのぶつかられた木くらいのものだ。その衝撃で、ぽっきり折れてしまったからだ。なかなか太い木だったから、かなりの衝撃だったのだろう。兄の乗っていたスポーツカーはアルミホイルをグチャグチャに握りつぶしたみたいになっていて、それがかつて自動車であったと想像するのが難しいほどだった。
 ぼくはその知らせを聞いたとき、兄と同じ車種に乗った、兄によく似た人物が起こした事故なのだと思った。信じたくない気持ちがあったのは確かだが、それ以上にそれが兄の起こしたことと信じられなかったのだ。兄はスポーツカーが不憫になるくらいに安全運転でスピードを出さなかったからだ。そんな兄が、スピードの出し過ぎで事故を起こしたなんてにわかに信じられなかった。信じられようと、信じられまいと関係なく、事実は事実であり、その事故を起こしたのは紛れもない兄だった。その遺体からアルコールの痕跡も、薬物の痕跡もない、シラフの兄だ。
 両親はとても落ち込んだ。我が一族の最高傑作、さらなる繁栄をもたらすであろう王子の死。そういう悲劇。
 ぼくの生家は、控えめに言って大金持ちだった。鉛筆から戦闘機まで商うような複合企業の創業者一族であり、あるいは国すら意のままに動かせる存在。その王位継承者であったのが兄なのだ。
「寂しい?」と、彼女がぼくの顔を覗き込んだ。まるで家族のように育ってしまったから忘れがちになるけれど、彼女はとても美人だ。彼女の母親はこの国で一番の美女だったのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
 彼女の父親はメディア王であり、新聞、出版、テレビを牛耳る男だった。彼が白だと言えば、黒いものでも白にできるような存在。父親同士は仲が良く、ぼくと彼女はまるで家族のように育った。ぼくと、彼女と、兄だ。
 おそらく、父たちは兄と彼女が夫婦になることを望んでいただろう。その結婚はふたりの幸せというよりも、ふたつの企業の繁栄を考えていたとしても。彼らには彼らの論理があり、それはぼくらの周囲を取り巻く論理であり、社交界、スノッブ、投資、スノッブ、スノッブ、スノッブ。少なくともぼくはそれに辟易していて、彼女もそれに合わせてくれていたけど、きっとそんな論理にすぐに順応するのだろう。そんな気がする。いや、ぼくだってそうなのかもしれない。結局のところ、ぼくらがそのホテルに泊まっているその支払いだって、そういうお金から出ることになるのだ。
「兄貴は」と、ぼくは言った。「死んじゃいたかったんだと思う」
「うん」と、彼女は囁くように言った。「わかる気がする」
 嘘だ、と思う。でも、そんなことはわざわざ言わない。兄のことは誰もわからないだろう。
「ああ、どこかとても遠いところに行きたい」ぼくは誰に言うのでもなく、そう言う。


No.544


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