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良いことと悪いこととどちらでもないこと

「世の中には良いことと悪いことがあると思うけど」と彼女は言った。「そのどちらでもないこともあると思うんだよね」
「そうだね」とぼくは言った。
「私の良くも悪くもないことの話、聞きたい?」
 ぼくは頷いた。
「昔、目の見えない人と二人っきりで話す機会があったの」と彼女は言った。
 部屋の中にはその男の人と私しかいない。なんでそんなことになったのかは忘れちゃったけど、とにかくそうしてあれこれ話したの。他愛もない話ばかりだったと思う。その人は、なんて言うか、すごく普通の人だった。特別いい人ってわけでもないし、嫌味な人でもなかった。とにかく普通なの。ちょっとした違いがあるとしたら、目が見えないってことくらい。それだけなのよ。 普通の人で、目が見えない人。
 音楽の話が多かったかな。通ぶった感じで、あのバンドはいい、このバンドは大したことないとか、よくある感じの話。私はそういうのあまり知らないし、なんかそうやって通ぶった人ってちょっと鼻につくなって思った。よくいるでしょ?そんな感じの人。 そう、普通なの。すごく普通。
 でも、そうは言っても、まあまあ楽しかったんだ。別に無理矢理その人と話をさせられていたわけでもないし。私は自分の意志でその人と話してたんだし。黙ってることもできたと思う。その人を不機嫌にさせちゃうかもしれないけど、そうなったところでどうってことなかったし。
 で、そうして話していたんだけど、なぜかその時ふと思ったの。私がもし音も立てずにここで服を脱いでも、この人は本当に気付かないのかな?って。なんでそんなことを思ったのか、全然わからないんだけど、思ったの。ちょっとした好奇心っていうか、意味のないイタズラっていうか。別にその人をバカにしてたわけじゃないんだ。純粋にどうなるか試してみたかった。
 それで、私、音を立てないように、ブラウスのボタンを外して、ブラジャーもとったの。全部脱ぎ捨てて、上半身にはなにも身に着けていない状態になったの。その間も変わらずにおしゃべりは続けながら。その人はなんだか違和感みたいなものがあったみたいで、どうしたの?みたいなことを尋ねたけど、ううん、別に、って言ったら、気にしなかった。で、私はしばらくそうして上半身裸でその人と話したの。
 その人は私が胸を出しても、全然動じたりしなかった。胸を出す前と変わらずに、あれこれ普通に喋ってたの。私、それでなんだかちょっとホッとしたの。ああ、この人は本当に目が見えないんだな、って感じに。別に、本当は目が見えるんじゃないかって疑ってたわけじゃないけど、なんだか色々なものが確実になった感じ。別にその人の目が見えなくてよかった、って思ったわけじゃないんだよ。目が見えた方がいいのかどうかはわかんないけど、なにかがカチッ、ってはまったみたいな感じ。なにがカチッとはまった のかはわからないけど。
 それで、ひとしきり喋って、時間がきたから、私はまた音を立てないように服を着て、それでおしまい。
 たぶん、私がしたことって、別にいいことでも悪いことでもないと思うんだけど、どうかな?
「いいことでも、悪いことでもないと思うよ」と、ぼくは言った。
「でしょ?」と彼女は言った。
「ところで」とぼくは言った。「だからまた、君は胸を見せているの?」
「なんでわかったの?」と彼女は言った。「あなたは読んでいるだけで、見えていないでしょ?」
「なんとなくさ」とぼくは答えた。

No.278

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