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幸福な結末

 彼女の母親はこう考えていた。この世の中は悲しいことばかりだ。人々は虐げられ、無意味な競争に駆り立てられ、疲れ切り、傷付き、あるいは殺される。そうした無慈悲で非情な世界で、自分の娘には強く逞しく生き抜いていってほしいと願ったから、彼女の母親が娘にしてやるお話はどれもこれも悲しい結末を迎えるものばかりだった。こうしておけば、無闇に期待を持って失望を味わうこともないだろうということだ。受け身の準備をしておけば、地面に叩き付けられても軽傷で済む。
「そうして狼に食べられてしまいました。おしまい」
「お姫様は塔に閉じ込められたままでした。おしまい」
「王子様が死に、それを見たお姫様も死んでしまいました。おしまい」
「それでおしまいなの?」と、幼い彼女は尋ねた。「お姫様、死んじゃったの?」
「そうよ、死んじゃったの。世の中って、そういうものよ」と、彼女の母親は哀しそうな顔で言う。間違っても彼女の母親が無慈悲で非情なのではない。彼女の母親はむしろ慈悲深い。無慈悲で非情なのはあくまでもこの世界の方である。少なくとも彼女の母親はそう認識していた。
 というわけで、彼女は世の中ってそういうものだと思って成長した。ある意味で落ち着いた人間だが、ある意味では面白味の無い人間に育ったのは言うまでもないだろう。非常に現実的で、夢など見ない。世界は非情なのだ。夢など抱けば盛大に傷付くことになるかもしれない。あるいは、人生は生きるに値しないものとすら見ていた。
「結局」と彼女は言った。「わたしたちは幸せになんてなれないんだよ」
「そんなこと」とぼくは言った。「わからない。最後まで生きてみないと」
「本当にそんなこと思ってるの?」と彼女は本当に驚いている表情で言った。「どんなに幸福であったとしても、必ず最後には死んでしまうのよ」
「それは確かにそうだけど」とぼくは言葉に詰まった。それは確かにそうなのだ。それは間違いなくやって来る結末ではある。「それでも、幸福な結末というものがあるかもしれない」
「どこに?」
「もしかしたら、ここに」
 こうしてぼくらは夫婦になった。別に夫婦になる必要は無かったのかもしれないが、そうした方が現実的に見て良いのだと彼女は言った。様々な制度上、手続き上のあれやこれやを勘案すると、それがベストなのだという。共に生きていくのなら、それが一番都合がいい。もちろん、ぼくも異存は無かった。
「どんな結末を迎えるかな」
「幸福な結末さ」
 そうしてぼくたちは日々を過ごした。悪くない日々だった。控えめに言って幸福な日々だ。彼女は現実的ではあるが、皮肉っぽいながらもユーモアのある人で、本質的な優しさを持っていた。もしも彼女が無機質でロボットみたいな人間だと評価されるとしたら、それはこの世界にこそ問題がある。この非情な世界が、彼女をそうしているのだ。無機質でなければ耐えられないこの非情な世界。
 彼女とぼくの日々、その幸福な日々の積み重ねは日常になり、日常こそが人生だった。どこかで「めでたしめでたし」と話が締めくくられることもない。まるでそれは永遠に続くかのようだ。
「ねえ」と彼女は言った。「いつになったら結末はやってくるのかしら?」
「さあ」とぼくは答えた。「わからない。でも、それはできるだけ遅ければいいと思ってる」
「幸福な結末でも?」
「そうだね」


No.218

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