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堕ちた天使とわたし

 天使が落ちていた。おそらく、堕ちた天使だろう。道のど真ん中に倒れ込んで、うっかりすると車に轢かれかねない。幸いなことに、これまでここを通ったドライバーたちはみな堕ちた天使に気づき、そろそろとスピードを落として、倒れた天使をよけて通っていた。それなりに道行く人はいるけれど、堕ちた天使なんかと関わり合いになりたくないのだろう。横目でチラリと見るだけで、遠巻きにして避けて通っている。
 わたしは少し悩み、辺りを見渡す。誰もわたしと目を合わせようとしない。みな目を背け、そそくさと通り過ぎていく。わたしはため息をつき、落ちている天使に近寄り、話しかけた。
「堕ちたの?」と、尋ねる。
「ああ」と、天使は身を起こし、頭をかきながら答えた。「堕ちたね」
「ふうん」
「理由は聞かないでほしい」
「別に興味ない」
「それは良かった」天使は肩をすくめた。「ウィン・ウィンだ」
「なんて?」
「ウィン・ウィン。お互い得をした」堕ちた天使は立ち上がり、服のホコリを払った。
「別になんの得もしてない」と、わたしは言った。「一切、まったく」
 堕ちた天使は肩をすくめた。それが様になっているとでも思っているのだろう。実際はみすぼらしい仕草以上のなにものでもない。
「君はろくでもない話を聞かないで済んだ」と、堕ちた天使は言った。「ぼくはろくでもない話をせずに済んだ。ウィン・ウィン」
「なんてろくでもない話」と、わたしは言った。「肩をすくめたりしないでよ」
「なぜ?」
「なんかムカつくから」
「それはそれは」と言いながら、天使は肩をすくめた。
 堕ちた天使はこうしてわたしのところに転がり込んで来た。よくある話だとは思う。本当にろくでもない、よくある話。それは堕ちた天使たちの常套手段だからだ。ムカつくのだけれど、なぜか無碍にできない。気づくとこちらの懐に入れれてしまっている。こちらが地団駄踏む姿を見て、ほくそ笑むのを見て、また地団駄を踏む。そんな関係。
 堕ちた天使はとにかく自堕落だった。これといった理由もなく夜ふかしし、昼過ぎになってようやく起きてきて、自分で使った食器は片付けず、脱いだ服は脱いだままの脱ぎっぱなし、それで悪びれる様子もない。わたしにできることはため息をつくことだけだ。
「ため息をつくと幸福が逃げるぜ」とニヤケ顔で堕ちた天使は言う。
「ため息をつかせるとなにが逃げるの?」
「言うね」
「なにを?」
 堕ちた天使は鼻で笑う。
 時々、堕ちた天使は真夜中にひとりで泣く。声を上げることも、鼻をすすることもなく、静かにただ涙を流す。それでもその気配だけは消せないらしく、わたしはそれを察することができる。あるいは、あえてその気配を発しているのかもしれないけど。
 その気配を察したわたしは、足音を忍ばせ部屋の隅で涙を流す堕ちた天使に近づき尋ねる。
「どうしたの?」
 すると、堕ちた天使は決まってこう答える。「いや、なんでもないんだ」
「どうして堕ちたの?」わたしは尋ねる。
 堕ちた天使は口を開きかけ、そしてなにも言わずに閉じる。そして、しばらく黙っている。わたしは堕ちた天使がなにか言うのを待つ。堕ちた天使はなにも言わない。
「おやすみ」
「おやすみ」
 墜ちるには墜ちるだけの理由があるのだろう、とだけ、わたしは思う。きっと、それはそれなりにツラいことでもあるのだろう。わたしの知ったことではないけれど。結局、自業自得なのだろう。たぶん。それでも。
 堕ちた天使は涙を流すを美しくも、醜くもない、普通の涙を。


No.615

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