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雨上がりの空に

 彼女は泣いていた。部屋の中、ひとりで、明かりもつけずに、ただ泣いていた。さめざめと、わんわんと、そして嗚咽を漏らしながら。ありとあらゆる泣き方で彼女は泣いた。外は雨、それも土砂降りの雨だ。雨脚は極めて強く、彼女の部屋の窓を雨粒たちが幾度となく打ち、弾けた。彼女はそれを聞くともなく聞きながら泣いていた。
 彼女は理解していた。その雨は、彼女の涙なのだと。彼女こそが、その雨を降らす張本人なのだ。いや、もしかしたら彼女を泣かす何かこそがその雨を降らせているのだと言うべきなのかもしれない。しかし、一体何が彼女に涙を流させるのか、当の本人である彼女自身ですら、もうわからなくなっているのだ。あまりに泣きに泣いたせいで、彼女を泣かせる理由は流れて行ってしまっていた。彼女は泣いた。ただただ泣いた。理由もなく、とにかく泣いた。そして、雨は降り続けた。
 雨は降りに降った。彼女の窓を叩き、その建物の屋根を打ちすえ、建物の前を走る道を流れ、街を濡らし、大地を満たした。川の水位は見る見る上がり、堤防を破り、荒れ狂った水が、車も、建物も飲み込んだ。もちろん、人も飲み込んだ。善人も、悪人も、善人でもなく、悪人でもない人も、無差別に飲み込んだ。それは有り体に言って悲劇だった。現実的な悲劇だ。悲劇という言葉で一括にしてしまうことが躊躇われるほどに、それは現実的な悲劇だった。
 彼女はそれもまた、理解していた。彼女の流す涙が、人々を悲劇に突き落としたのだ。プールサイドではしゃぐ子どもたちがやるみたいに、突き落とし、水しぶきが派手に上がる。もちろん、それは彼女の望んだことではなかった。できることならば、悲劇を彼女は避けたかった。彼女は心優しい人間である。悲劇など真っ平だった。それでも、彼女は泣き止むことがなかった。泣き止むことができなかった。涙は次から次へと溢れてきた。雨で家を奪われた人々のために彼女は泣いた。雨で命を奪われた人々のために彼女は泣いた。世界のどこかで戦争をしているという事実で泣き、無辜の人々が虫けらように殺されているということで泣いた。責めさいなまれる子どもたちがいることに泣き、非人道的に扱われる人々がいることに泣いた。権力と金銭のために人間性を売り払う人々がいることに泣き、彼らが自分たちの愚かさにも罪深さにも気づけないということを憐れんで泣いた。彼女は泣き止むことができなかった。世界には泣く理由があまりにも多すぎた。泣けば泣くほどに雨は降り、大地は水で満たされた。ビルを飲み込み、山々さえその涙に没した。
 恐ろしいほどの静寂がやってきた。彼女は顔を上げ、耳を澄ます。ずっと鳴っていた雨音が無かった。彼女は窓に目をやった。光が差し込んでいる。彼女は身を起すと、窓辺に行き、それを開け放った。そこには朝日に照らされた世界があった。静かで、美しい世界。何もかもが光輝き、幸せに満ちていた。気怠く走っていくゴミ収集車ですら、彼女は祝福できるような気がした。相変わらず、世界は悲しみに満ちていたが、彼女はもう泣いていなかった。彼女にはわかっていてからだ。彼女はドアに向かって歩き、それを勢いよく開くと外に出た。
 彼女はわかっていた。この悲しみだらけの世界で、なにをすべきなのかを。


No.233

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