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ふしぎのきもち

 彼は自分が知らないことなどこの世にないと思っていた。幼いころから本の虫で、ありとあらゆる本を貪るように読んだ。食事時も本を読むのをやめないものだから、母親が怒って無理やり本を取り上げると、腹を立て、ぶつぶつ不平を言っていたのを、母親は放って置いたのだが、しばらくすると静かになっている。不審に思った母親が彼を見ると、一心不乱にドレッシングのラベルを読んでいた、そんなこともあった。
 そんな具合だったから、彼はその年齢にしては驚異的と言っていいくらいに様々な物事を知っていた。ドレッシングに入っている添加物についてはもちろん、天体の運行、様々な為政者たちの事績、数学の法則、古今東西の物語、伝承、神話、物理現象、スポーツ、オカルトや、都市伝説、噂話の類まで。彼くらいの年齢であれば、会話を交わす相手も限られてくるだろう。家族と、学校でのクラスメイトや、教師たち、そうした相手で、彼を凌駕するような知識の豊富さを見せつけられるような人間はいなかった。
「へえ、よく知ってるね」そう言われて、彼は鼻を高くする。
 あるいは、まだ知らないこともあるかもしれない、と彼自身もある部分ではそう思っていた。それはそうだろう。彼の行きつけの図書館でさえも、まだ彼が触れたことすらないような本があるのだ。そこにどんな知識が記されているのか、彼は確かに知らない。知らないこともある。しかしながら、それはいま現在知らないということで、その知らないことはじきに知っていることになるだろうと、彼は確信していた。それは知らないことがないのと同じではないか。たとえば世界が地図だったとして、まだ白地図の部分はあるかもしれないが、それもそう遠くない未来に塗りつぶされることになるだろうと、彼は強く信じていたのだ。それならば、それは知らないことがないのと同じではないか。彼は自分がその地図の全体があるということを知っているということをもって、知らないことはない、じきになくなると、そう確信していた。
 ある夕暮れのこと、彼が本を読みながら歩いていた時のことだ。以前、そうして本を読みながら歩いていて、溝にはまったことがあり、母親からもう二度とするなと厳禁されていたが、それでもその欲求には抗いがたく、本を読みながら彼は歩いていた。本のページに目を落とす、足元を見る、ページ、足元、ページ、足元、そんな具合に、慎重に歩いた。もう同じ轍は踏みたくない。ページに目を落として歩いた数歩、彼は何かにぶつかった。その拍子に本を取り落とした。そのほんの数秒前には何も無かったのに、と思いながら、本を拾い、彼が目を上げると、そこには少女が立っていた。確か、彼と同じクラスの少女だ。
「痛い」と、少女は言った。
「ごめん」と、彼は謝った。「前を見てなくて」
「ちゃんと前を見てよ」と、少女は言った。
「でも」と、彼は言った。「そこにいなかった」
「え?」
「ちょっと前には、そこにいなかった。ぼくの歩くのを邪魔したのは君じゃないか」と、彼は苦情を言った。自分だけが悪者にされるのには納得がいかなかった。少女は肩をすくめただけだった。
「夕日を見てたの」と、少女は言った。「空が真っ赤に染まって、きれいじゃない?」
「太陽の角度が下がると、空気の層が厚くなる。赤い光は青い光に比べて散乱しにくいから、赤く見えるんだ」と、彼は言った。そんな彼を、少女は不思議そうな表情で見ていた。
「それで」と、少女は尋ねた。
「それで?」と、彼は戸惑った。「それでって、だから赤いんだ。それだけ」
「でも」と、少女は言った。「きれいでしょ?」
「そうだね」と、彼は答えた。確かに、きれいと言えばきれいなのかもしれない。
「不思議じゃない?」と、少女は尋ねた。
「不思議?」と、彼は言った。「なにが?」
「きれいだな、って思うこと」
「それは」と、彼は言い淀んだ。「心理学で何か答えが書いてあった気がする。ちょっと待って、思い出すから」
「違う、違うよ」と、少女は言った。「誰かとか、人間が『ああ、きれいだな』って思うことについてじゃなくて、わたしや、君がきれいだなって思うことが、不思議じゃない?」
 彼は少女の顔をジッと見ていた。その視線に、少女は少し居心地の悪そうなそぶりを見せた。彼は自分のその名状しがたい気持ちがとても不思議だった。その、初めての気持ちが。
「不思議だ」と、彼は呟いた。


No.455


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