見出し画像

至れり尽くせり

 旅の醍醐味はなんといっても自分のものとは異なる文化に触れることにあると思う。それは新鮮な真新しい体験をするとともに、既知のものとなり色褪せてしまった自分の文化に対して新しい捉え方の扉を開くものなのだ。そのために、わたしは旅に出る時にはその地の言葉をできるだけ覚えることにしている。言葉を覚えることによって、観光客向けのサービス以外の、生のその文化に触れることができると考えているのだ。少なくとも簡単な会話や文書を読むことが可能なくらいの勉強はしておく。別にこれは個人的なポリシーで、全ての人がこう振る舞うべきだとは思ってはいない。
 そこは古くから独自の文化を育んでいた土地であった。無論、外来のものがまるでないかというとそんなことはない。数々の交流があり、外来の文物がそこに入っていた。しかし、その土地の人々は、その外来の文物を彼らの作法に従って解体、解釈し、まったく独自のものと呼んでも差し支えないような文化を作り上げていたのだ。わたしはそこの文化に強く惹かれていたが、そこの言葉を覚えるのに難儀して、訪れることが叶わないでいたのだ。
 さて、ついに念願叶ってその土地を踏むことができた。空港に着いてまず驚いたのは、案内の掲示の多さである。どこに行くのはこちらへ、といった具合の看板が至るところにあり、矢印があちらこちらを指し示している。わたしの目指す目的地ももちろんその中にあったので、わたしはそれに従って歩いて行った。なんの苦もなく進んでいった。
 途中あったエスカレーターには、「ステップ中央にお立ちください。駆け上がったり駆け降りたりしないでください。タイミングを上手くとって、お降りください」と書いてあった。その後も一事が万事そんな具合だ。
 タクシーに乗ろうとすると、その車体に「頭をぶつけないようにお気をつけください。運転手に行く先をお告げください。お代はこちらにお願いします」
 ホテルに着くと、そのエントランスに「ようこそおいでくださいました。こちらでチェックインをお願いします。予約の確認のためにお名前をお知らせください。荷物はこちらでお預かりします」
 エレベーターにはその操作方法が書いてあったし、扉には鍵の使い方が書いてあった。冷蔵庫にもその使用上の注意、まあ、親切心からのことなのだろうとは思う。実際、それに助けられる部分だってあったのだ。もちろんわたしはエスカレーターの乗り方、エレベーターの乗り方を知っていたし、タクシーの利用法もわかっていた。まあ、それは自分の慣れ親しんだ土地の、であるから、もしかしたら所変わればなんとやら、違うことがあるかもしれない。それに、その違いこそが醍醐味である。まあ、わたしの土地とその土地のエレベーターの乗り方には違いはなかったのだが。
 部屋には着替えが用意されていた。寝巻きのシャツには「左手を出す」「右手を出す」「頭を出す」と書いてあった。もちろんそれはわたしの土地にもあるシャツで、わたしはその着方を知っていた。
 窓際に行くと、「危ないので身を乗り出さないでください。ここから落下すると、かなり高い確率で命も落とします」と書いてあった。
 何気なく机の引き出しを開くと、そこには拳銃が一丁入っていた。もちろん使用上の注意も。
「この部屋ではカーペットが汚れますので浴室でお願い致します」




No.146

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?