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楽園からの出口

 甲冑の男はヨロヨロと体を引きずるように歩いている。まるでその身に着けた鎧が重過ぎるように。あるいは、実際にそれは不相応に重たいのかもしれない。鎧とはいつもそういうものだ。重たい体を支える杖代わりにしているのは折れた剣である。甲冑の隙間からは血が溢れ出てきている。おそらく、その生身の体は傷ついているのだろう。鎧も傷だらけだ。
 男が息も絶え絶え歩いているのは、鎧が重たいからではない。激しい戦いがあったのだ。力いっぱい振りかざされた剣と剣が火花を散らし、肉が断たれ、骨が砕かれる戦いが。男は戦いで傷つき、打ちのめされ、痛みを抱え、それでも生きていた。かろうじて。傷つき、疲弊した体は重いのだ。生きる体は重い。
 男は体を引きずるように歩いている。その歩くのは美しい芝生の丘、空は晴れて青く、白い雲が浮かんでいる。青く美しい芝生の丘に、その体から流れた血を落としながら、男は歩いている。血のしずくは花の上に落ち、蜜を集めていた蜂を驚かせた。男が一歩進むたびに、鎧のこすれる金属音が不快に響く。花から花へ舞い飛ぶ蝶が不愉快そうに眉をひそめて一瞥をくれた。男はそんなものはお構いなしに進んでいく。男の足跡は血で染まり、芝生の上に点々と赤い印をつけている。緑の芝生につけられた赤い点。小鳥が歌うのを、男の荒い息がかき消す。男の放つ禍々しい気配は、青空をにじませる。
 丘の上には、乙女たちがいた。花を摘み、小鳥のようにささやき合い、歌を口ずさんでいる。誰もが笑い、喜びで周囲を染めている。その中の誰かが足音に気づき、振り向いた。男の姿を認めた。身をすくめ、それは波紋のように乙女たち全員に広まる。誰もが顔色を曇らせ、怯えている。男はそんな乙女たちの様子にもお構いなしに、彼女たちの方へ向かって進んでいく。乙女たちは身を寄せ合う。男は乙女たちのほんの目と鼻の先で立ち止まる。地獄の底で吹く風のような息遣い。血が滴り、辺りを赤く染める。
 乙女の中のひとりが、勇気を奮って進み出る。他の乙女たちはそれに隠れるのか、それとも支えるのか、その背中にぴたりとくっつく。
「あなたはどこから来たの?」乙女は男に尋ねた。
「戦場から」男は答えた。「ここはどこだ?」
「ここは楽園です」乙女は答えた。「あなたには場違いな場所」
 男は自嘲気味に笑った。「確かにそうかもしれない」
「どうして」乙女は尋ねた。「そんなに傷つかなければならないの?」
 男は今度は嘲笑した。「どうして?」
「どうして?」
「出口はどこだ?」男は答えずに尋ねた。
「え?」
「出口だ」
「ここに出口なんて無い」乙女は答えた。「ここは楽園。誰もここから出たいなんて思わないから」
「俺は思う」
「なぜ?」
「帰るんだ」
「どこへ?」
「戦場へ」
「可哀相な人」
 男は折れた剣を振り上げる。乙女は男を睨みつける。男はその眼差しを受け止める。そして、金縛りにあったように身動きしなくなる。
「お前を殺せば、ここから出られるか?」男は尋ねる。
「誰かを殺しても」乙女は男を真っ直ぐに見据えて言う。「あなたは何一つ得られない。何一つ」
 甲冑の男は膝から崩れ落ち、その場に倒れ込んだ。突っ伏し、微動だにしない。
 乙女が甲冑の男に歩み寄り、それにそっと手を伸ばし、その指先が触れた瞬間、甲冑の男は灰になり、爽やかな風が吹いて、すべてを吹き飛ばし、あとにはなにも残らなかった。
 なにも。

No.287

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