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彼女が死んでしまった昼下がり

 彼女が力なく横たわっていた。近づいて顔を覗き込むと目をつむっている。穏やかな表情だ。ぼくは彼女が眠っているのだと思った。昼寝にはちょうどいい春の昼下がりだ。
 ぼくは横たわる彼女の身体をまじまじと見た。普段なら、そんなにじろじろと見るのは憚られたに違いない。彼女だって、そんな視線にさらされたら文句のひとつでも言うに違いない。
「なに見てんのよ」
 それは質量とある空間を占める現実的存在だった。有機物が、生命の活動が、云々。そして、ある場合には欲情を煽りもするだろう。そういう、複雑ななにかが、ぼくの目の前で横たわっている。赤い唇、健康的なふくよかな頬、豊かな乳房、主張する臀部、透き通るような白い肌。細胞、ミトコンドリア、分子、原子。宇宙の中に存在するなにか。そんなことをぼんやりと考えていた。春の昼下がりだ。とりとめのない思考が去来してもおかしくないだろう。
 彼女の視線でぼくは我に返った。彼女は横たわった姿勢のままぼくを見ていた。
「どうだった?」と、彼女は尋ねた。
「うん」と、ぼくは答えた。答えにはなっていないけれど。
「死んだ人の演技だったんだけど」
「うん」
「オーディションがあるの」
「死んだ人の?」
「死んだ人の」
 彼女は女優の卵だった。とはいえ、オーディションではいつも落とされ、かろうじてもらえた役もセリフの無いほんの端役ばかり。それでも、彼女は女優の卵だ。とりあえず、彼女はそう主張しているし、ぼくはそれに異存は無い。
「君が声をかけるのがあと少し遅かったら」と、ぼくは言った。「葬儀屋を呼ぶところだった」
「救急車じゃなくて?」
「うん」ぼくはうなずいた。「完璧に死んでるみたいで、もう手遅れだと思ったから」
 彼女は身を起すと言った。「悲しかった?」
「それはもう」
「生きてる」
「ホッとした」
「今度は手遅れじゃないかもしれないくらいの死んだ人をやるね」と言いながら、彼女はまた横たわった。
「人工呼吸でもした方がいいかな?」と、ぼくは言い、覆いかぶさろうとするとクスクスと彼女が笑った。そして、しばらくそうやってじゃれていると、彼女の電話が鳴った。彼女はぼくを跳ね除けると、その電話に出た。なんだか神妙な調子で受け答えをしている。ぼくはあたかも自分が存在しないかのように振る舞った。ぼくの分子、原子。ぼくの存在しないという演技はどうだったか、電話が終わった彼女に尋ねようかと思ったがやめておいた。もしもそれが賭け事だったら、そんな皮肉に彼女が気づかない方にぼくは賭けるだろうけど、単純にそんなひねくれたことを言う気分じゃなかったからだ。
「彼?」
「うん」と、彼女はうなずいた。気まずそうな様子だ。たぶん、演技じゃないと思う。「彼」
「仕事?」
「そう、仕事」そう言うと、彼女は立ち上がった。「行かなきゃ」
「急だね」
「幸運の女神様には前髪しかないんだよ」
 彼女からそんなセリフが飛び出すとは思っていなかったぼくは一瞬呆気にとられた。彼女が得意げにぼくを見ている。「変な髪型」と、ぼくは言った。
 「彼」とは、映画のプロデューサーだとかいうやつである。仕事の世話をしてくれるという。ぼくはすごく胡散臭いやつだと思うのだが、それは口にしない。いや、一度口にしてひどい口論になったからだ。それからというもの、それについてはノーコメントを貫いている。沈黙は金だ。彼女の口から格言めいたことが出たから、ぼくも負けたくない。
 たぶん、彼女の身体目当てなんだと思う。
「ほら、映画に出たいだろう?」映画に喉から手が出るくらい出たい彼女はその申し出に乗ってしまう。その瞬間、ぼくは忘れ去られる。分子、原子、存在しない演技。
 サイテーの野郎だ。ぶん殴ってやりたい。そう思っても、それはしない。それで万が一、彼女の夢が潰えてしまったら、ぼくはきっと死ぬまで恨まれるだろう。だから、なにも言わないし、なにもしない。そして、「彼」の誘いで食事をともにすることまで、ぼくらの間では「仕事」と呼ぶようになっていた。だいぶ大胆な拡大解釈だが、物事を穏便に済まそうとすると往々にしてこういうものが必要になる。
 彼女が行ってしまって、ぼくは原稿用紙を広げた。もちろん、それに文字を書き込むために広げたのだが、だいたいの場合はぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放り投げることになる。ほぼ百発百中だ。練習の賜物、いや、そんな練習のために原稿用紙を出したのではなく、ぼくは脚本家志望だったのだ。いつか、ぼくの脚本が認められ、映画になる。
「主演女優は、彼女で」
「いや、しかし」
「彼女以外考えられない。彼女をイメージして書いているんです。もし、彼女を使わないと言うのなら、このお話は他のところに持って行かせてもらいます」
「いや、ちょっと待ってください、先生」
 結論から言えば、夢は儚い。夢見ることは推奨されるのに、それの保証なんてどこにも売っていないのだ。まあ、ぼくのこの文章を見てもらえば、多くのことを語らずともわかるだろう。破れた夢、分子、原子、存在しつづけるぼく。夢が破れても。
 結局、彼女は例の「彼」と結婚した。本当に映画プロデューサーだったのだけれど、彼女の身体目当てだったわけではなく、彼女そのものが目当てだったようだ。彼女は彼の助けで何本か映画に出たが、鳴かず飛ばず、引退し、彼と結婚した。それがハッピーエンドなのか、脚本家の夢破れたぼくには判断できない。
「それは」と、結婚することが決まってから、一度だけ会った彼女にぼくは尋ねた。「仕事の世話?」
「大きなお世話よ」彼女はそう言うと行ってしまった。季節は忘れたけど、昼下がりだった。そして、それきり彼女とは会っていない。会うことも無いだろう。
 死んでしまうのと、二度と会わないの、どう違うのだろう?


No.484


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