ぼくの魔法使い
ぼくがまだ幼い頃ことだ。その頃にはまだ魔法使いがいた。彼にかかれば、タバコを消してみせるなんてのは朝飯前だった。なにも無いところからコインを出現させたし、ぼくの引いたカードのが何かを言い当てたりしてみせた。
魔法使いはぼくの叔父だった。魔法使いとぼくには血縁関係があったから、ぼくも将来的には魔法が使えるようになるのではないか、と当時のぼくは思っていた。自分の血筋が魔法使いの血筋なのではないかと思ったのだ。
「魔法を?」
「うん」
「君が?」
「そう」
「はは」と彼は笑って言った。「そうかもね」
とはいえ、考えてみれば、母は叔父と血縁だけれど、ぼくは母が魔法を使ったところを見たことがなかったし、また、叔母たちが魔法を使ったところを見たこともなかった。祖母もだ。祖父はすでに故人だったから、魔法が使えるのは男だけなのかもしれない、と、ぼくは思ったのだろう。まだぼくは幼かったし、あんまりそのあたりの整合性は頭に無かったのかもしれない。
よく母はため息混じりにこう言った。「あの子は」と、ここで決まってため息。「末っ子で甘やかされて育っちゃったから、自分では何もできないのよ」と言って母は叔父に大人になって欲しいと口では言いながら、その実、姉である母自身がその弟である叔父を子供扱いをいつまでもしていた。
その頃のぼくには、その母のため息の意味が理解できなかった。なにせ叔父は魔法使いであり、どんなことだってできたのだ。何も無いところからコインを出現させたり、ゴムボールを消したり。
「ぼくは」と、魔法使いはよく言った。「なんにもできないんだよ」
「だって」とぼくは言った。「魔法でなんだってできるじゃないか」
叔父は力なく笑って「それならいいんだけどね」と言った。「みんな僕はネジが一本外れちゃってるって言うけれど」
ぼくは相槌に頷いたけれど、魔法使いの言う意味を理解していたわけじゃない。ぼくは魔法を信じていた。
「歯が一枚かけちゃってるんだと思うんだ。だから、僕は上手く動くことができなくって、なんにもできない」
「ふーん」
「君も大きくなったらわかるさ」
「魔法は使える?」
「どうかな?」そして魔法使いは自分の親指をその手の甲から切り離して見せた。「君ならなんだってできるさ」
それから少しして、魔法使いは失踪した。それもぼくには理解の及ばないことだった。母や叔母たちは取り乱していた。心の内を悟られまいとしていたが、それは幼いぼくですらひしひしと感じることができた。警察にも行ったし、尋ね人の貼り紙を至るところに掲げたが、彼は見付からなかった。まるで魔法で自分自身を消してしまったかのように。
「あの子」と母はかすれる声で言った。「変なことしなきゃいいけど」
それは今になって思うと、魔法使いが自ら命を絶つことに対する危惧だったのだろう。
それからかなり長い時間が経った。気付けばぼくはあの頃の魔法使いの年齢を追い抜いていた。彼が言ったほど、ぼくにできることは多くはないのだと理解するには充分な時間だった。この歳までに、自分の凡庸さが腹に染み入ったぼくは幸運な部類に入るに違いない。ぼくにできることはごくわずかであり、ぼくはその小島のようなできることにしがみつきながら、この先の人生を生きていく所存だ。悪くはない。凡庸さに気付かないことや、そもそも凡庸さというものに思い至らないことに比べればいくらかは。
魔法使いの行方は杳として知れない。母がそのことについてどう思っているのかもわからない。ぼくは彼がまた魔法のようにふと現れるのではないかと思っている。そうしたら、ぼくは魔法使いに魔法の使い方を教わりたいと思っている。残念ながらぼくはまだ魔法が使えるようになっていないから。
No.400
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