見出し画像

さよなら、夏の日

 これを書いているぼくはいま、東京にいる。夜、窓の外では雨が降りしきっている。夏のおわりを納得させるために降るような、そんな静かで断固とした雨。雨上がりには、秋の気配をふんだんに含んだ風が吹くのだろう。
 そんな雨をぼんやり見ながら、ぼくはあの夏のことを思い出していた。あの、最後の夏。
 まだぼくが学生だったころ、その夏、ぼくは東北の伯父の経営するレストランでちょっとしたアルバイトをすることになった。わざわざ「ちょっとした」と断るのは、それがちゃんとした雇用契約に基づくものでなかったからであり、すべてをおえて手渡されたお金も労働時間の対価としてはいささか不満の残るものだったから。とはいえ、ぼくがそこでちゃんとした労働力として機能していたのかと問われるとなかなかそう首肯するのが躊躇わられるというのが正直なところだ。公平な見方をすれば、それはお小遣いを渡すための口実としてのお手伝いに過ぎず、まあぼくは労働力とは見られていなかったのだろうし、実際のところそういう力にはならなかったに違いない。元からそこにいる従業員の人たちにとってのぼくが、猫の手、よりはややいいものであったことを祈るばかりだ。そもそもぼくは伯父の家に泊めてもらい、三食食事だって出るのだ。従姉妹の息子と川遊びをしたりもした。そんな身分の労働者はまずいない。
 レストランはなかなかに繁盛していた。街道沿いにある店舗は、その周辺に他に競合店もなくお客は総取り状態だった。ぼくの仕事は配膳や食器の片付け、仕出しもしていて、その配達に駆り出されることもあった。宴会場も備えていて、結婚式なんかも引き受けていたから、その準備をすることもあった。伯父はなかなかのやり手だったのだ。豪快な笑顔がいまでも目に浮かぶ。豪快で、エネルギーの塊のような人だった。
 ぼくはそこで彼女と出会った。彼女は地元の人だった。地元の高校を卒業し、地元の専門学校に通っていて、地元の伯父のレストランでアルバイトをしていた。
「そして、たぶん地元から出ないで、一生を終えるの」と、彼女は笑った。「完全で、完璧で、完結した人生」
「そうだね」と、ぼくは答えた。「完璧だ」
 小柄で、垢抜けない感じのおとなしい性格の女の子だった。それでいて仕事はキビキビできて、ぼくは何度となく助けられていた。ぼくと彼女は同い年で、ぼくも人見知りをするタイプだったのだけれど、気づくとぽつりぽつりと会話をするようになり、その夏の終わりには冗談を言い合う仲にまでなっていた。
 夏の終わり、ぼくが東京に帰る前日のこと。
 ぼくも彼女も夕方に仕事を終えた。いつもなら、ぼくは伯父のレストランを取り仕切っている従姉妹の運転する車で伯父の家に帰るのだが、ぼくと彼女の様子を見た従姉妹が、ニヤニヤしながらぼくを追い払うような仕草をした。
「あたし寄るとこがあるから、あんたは歩いて帰りな」
 ぼくは振り返り、彼女を見た。彼女は目を見開き、うつむいた。
 土地勘が無いから、彼女に促されるまま歩いた。秋の風が吹いていた。他愛もない会話、まるで永遠にそうやって話し続けていられると、そう信じるフリをするみたいに。夏が終わる。
 不意にザッと雨が降ってきた。ぼくらは慌ててバス停の待合室に飛び込んだ。高校の前のバス停で、誰もバスを待っていない。そこにいるのはぼくらだけだった。雨粒がトタン屋根を叩く。アスファルトで水滴が弾ける。焼けた道路が冷まされていって、鼻の奥をくすぐる、雨の匂いがする。
「このまま、時間が止まればいいのにね」と、彼女は言った。小さな声で、雨音にかき消されそうなくらい小さな声で。
 ぼくは彼女を見た。彼女もぼくを見た。雨音が消えた。とても静かだった。時は、止まっていた。
 ぼくと彼女は、そっと唇を重ねた。
「きっと」と、彼女は言った。「いつか、あの頃は良かったなんて、思っちゃうんだろうね」
「そうかもしれない」ぼくは言った。「そうかもしれない」
 雨音が弱くなっていく。ぼくらは空を見上げた。雨雲が遠ざかっていく。日差しが戻ってきた。虹が、かかっていた。それは最後の虹。
 翌日、ぼくは東京に帰った。新幹線の席に座り、ぼくは「さよなら、夏の日」と呟いた。
 あれから、ずいぶん長い時間がたったのだけれど、ぼくは時折あの夏の日を思い出す。そして、彼女の言ったように、あの頃は良かったと、そう思うのだ。


No.636
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?