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ナイトクルージング

 水の音で目が覚めた。いや、それに眠りを破られたわけではない。目覚めた時に耳にしたのが水の音だった。ちゃぷ、ちゃぷ、と、水がなにかを撫でているようだった。たゆたうような、たゆたっているような、そんな感じだった。
 目覚めてはいたが目は開かなかった。横たわっていたのだが、そのままでいた。目を開こうと思えなかったし、起き上がろうとも思わなかった。目を閉じたままでも、あたりが暗いことがわかった。瞼を透かすような明かりもない。ただ、水の音、その匂い。ギッ、と、木のきしむ音。
「起きているんだろう?」と、耳元で声がした。押し殺した、囁き声だ。あいまいにうなずいた。そのままの姿勢で、目を開いた。案の定、あたりは真っ暗だった。囁き声の主の姿は見えなかった。ただ、その気配だけが、かたわらにあった。
「なぜそんなに小さな声で?」と、声を潜めて尋ねた。
「彼らに気づかれたら、魂を持って行かれてしまうからさ」と、囁き声は答えた。
「ここは?」その問いかけにはなにも答えは返って来なかった。肘をつき、体をそっと持ち上げる。
「静かに」と、囁き声。息をつく。身を起こした動きで、横たわっていた場所が揺れた。どうやら小舟の中にいるようだ。そっと、あたりを見渡す。囁き声の主らしき影がすぐそばにあり、舳先にはランタンがつるされているが、明かりは弱々しく、あたりを照らすことなどできておらず、それがそこにあるということだけを教えている。艫には艪を操る漕ぎ手がいるようだが、その姿も闇に包まれ見えない。闇はあくまでも深く、すべてを飲み込まんとしているようだ。
 ふと、船べりから下を覗くと、黒い水面があり、そこには無数の光る小さな点がちりばめられている。
「宇宙さ」と、囁き声は言った。
「宇宙を、進んでいるの?」
 頷く気配があった。「手を入れてごらん」と、囁き声は言った。
 恐る恐る、その水面に手を差し入れる。それはねっとりと重く、ぬるかった。
「エントロピーが」と、囁き声は言った。「増大しているんだ」
「エントロピー」と呟き、「増大」と小声で出した瞬間、囁き声は息をつめた。それにつられ、息を呑んだ。
「到着するよ。身をかがめるんだ」と、囁き声は言った。それに従い、船の底に這いつくばり、小さくなる。艫が漕がれ、ギッ、ギッ、と、きしむ音がする。水がかき混ぜられ、ちゃぷ、ちゃぷと音を立てる。船が揺れ、船着き場に繋がれた。
 まったく気づかなかったが、その船には他にも乗っている者がいて、次々と船から降りていく。頭を少しだけ上げ覗き見る。船着き場は石段になっていて、そこには申し訳程度の明かりが燈されている。乗客たちはそろりそろりと、音もさせずに、順序正しく、間をあけることも無く降りていく。そして、闇の中に姿を消していく。闇に飲み込まれていくと言った方が正確かもしれない。深い闇だ。どうやら最後のひとりまでが降りたようだ。かたわらでは、囁き声の主が息を潜めている。なにか、生温かい風が舐めていった。その瞬間、囁き声は息をつめたから、同じように息を止めた。そして、しばらくすると、舫われていた綱が解かれたのだろう、船は岸を離れた。
「どこに行くの?」
「心配ない、大丈夫だから」
 その声には、なにか確信めいたものがあり、こちらを安心させるだけの響きがあった。そして、船は気持ちよく揺れるし、ちょうどいい温かさなものだから、いつしか眠りに落ちていた。
 朝日の光で目覚めた。船の中ではなく、自分の寝床だった。しかしながら、あれは夢ではなく、実際にあったことなのだと思う。宇宙の水面に指を浸した感覚、耳元にかかる囁き声と湿った息。
 あくびをして、自分が生きているのに気づいた。


No.453


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