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悲しみだらけの世界で

 父は笑うことのない人だった。笑うことが少なかったのではない。ただの一度も笑ったことがなかったのだ。少なくともぼくの前では。一度、父が泣くところを見たことがある。父の母、つまりぼくの祖母が死んだ時だ。その時も確かに驚いたが、もし父が笑うのを見たとしたら、その驚きは泣いた時の比ではないだろう。実際のところ、ぼくは父が泣くところを見て少し安心した。それまでは、笑うところも泣くところも見たことがなかったのだ。もしかしたら、この人には普通の人間の持つ感情というものがないのではないかという疑いがあったからだ。
 正直な話をすると、ぼくは長いこと父親というものは笑わないものだと思っていた。自分の父親に限らず、世の中の父親というもの全てがだ。たぶん、学校に上がってからもしばらくの間、そう信じ込んでいたと思う。なぜそんなことを信じ込み続けたのか、我ながら不思議に思う。確かに、ぼくの父親は笑わない人で、その父を見て育ったから、ということは一つの原因ではある。しかし、外に出れば、多くの父親を目にするはずで、それでもなお父親イコール笑わない、と信じ続けられたのはいささか不思議ではないだろうか。もしかしたら、ぼくの前を通り過ぎる父親という父親は全て、ぼくの前では笑わなかったのかもしれないが。
 ぼくが父親というものが全て笑わないわけではないという事実に気づいた出来事は単純なことだ。語るまでもないほど単純なこと。級友の家に遊びに行き、そこの父親が大口を開けて笑っていた。確か、テレビのバラエティ番組を視ていたのだ。実に単純なことだ。おそらく、世の中に存在する気付きとはおおよそこんなものなのだろう。重力に気付いた瞬間なども。なにしろ、それはすでに常に用意されていて、後は気付かれるだけなのだから。しかし、気付いた当人としてみれば、その驚きは世界が裏返るくらいの衝撃である。自分の知っていた世界は、その時にはもうないのだ。
 その日、ぼくは家に帰ると、母親に父の笑わないことについて尋ねた。母はキョトンとした、まさに鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をして、首を傾げた。
「お父さんが笑わないって?」と母は言った。「まさか、そんなことがあるわけないじゃない」
「見たことがある?」
「ないかもしれない」
「でしょう?」
「見たことがないからといって、笑ったことがないとは限らないじゃない」
 もちろん、ぼくもその可能性は考えたし、それに関しては今も一縷の望みを託す部分でもある。確かにぼくは父の笑ったところを見たことがない。それは事実だ。しかし、父はぼくの見えないところで笑っているのではないか。
しかし、とまた反駁せざるを得ないのも事実だ。ぼくだけでなく、兄も、長年連れ添った母も、父の笑うところを見たことがない。一番身近にいる家族にも見せない笑うところを、それ以外の人間に見せるだろうか。いや、職場では家庭とはまるで違うことだってあるかもしれない。そう思って、どんな機会だったかは忘れたが、父の同僚の人と話す機会があり、そこで尋ねたが、やはり職場でも父は笑わないとのことだった。もし父に笑うことがあるとしたら、それは父が一人きりの時だろう。そして、ちょっとそれは考えづらいような気がする。父は笑わない人だったのだ。
 父親が笑わないということがどういうことかは、笑わない父親を持たない限り分からないだろう。父親が笑おうが笑うまいが、そんなことは自分には関係ない、そう思う人が多いことと思う。実際そうなのかもしれない。しかし、その事実、父が笑わないことに気付いて以来、ぼくには常にその事実がつきまとった。何か烙印でも押されたような気分だった。こいつの父親は笑わない。もしかしたら、父は今の生活が不満であり、だから笑わないのではないだろうか、と考えたりもした。もちろん、その生活の中にはぼくも含まれるのだ。
 笑わないことを除けば、父は一般的な父親像からそう大きく離れた父親ではなかったのではないかと思う。ボール投げの相手になってくれたし、釣りの仕方を教えてくれえもした。まあ、どういう父親が普通の父親なのかはわからないが。
 ある日、父がふと漏らしたことがある。
「まだお前と同じくらいの年の頃」と父は言った。父とぼくしかいなかった。「世界には恵まれない人や、辛い目にあっている人がごまんといることを知ったんだ」
 ぼくは黙って頷いた。
「そういう人たちのことを考えると、辛いし、憤りを感じずにはいられない」
 ぼくはその先を待ったが、父は何も語らなかったし、その後にそんな話題が出たこともなかった。
 もしかしたら父は、この世界に不幸な人がいるのに、笑っているなんてできないと思っていたのかもしれない。心苦しいと思っていたのかもしれない。不幸な人がいなくなるまで決して笑うまいと決意していたのかもしれない。この悲しみだらけの世界で。確かに、父は優しい人だった。笑うことはなかったけれど。
 だがしかし、ぼくは父に笑って欲しかった。どこか遠くに飢えに苦しむ人がいたとしても。


No.122

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