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なにかを信じるということ

 ナンパかと思ったら宗教の勧誘だった。気付いたのは一緒に映画を観て、食事をして、公園を散歩している時だ。そこまで気付かなかった。彼はそんな素振りを見せもしなかった。映画の感想を話し合って、お互いのことを話しただけだ。そこの中に、信仰の話はなかった。
 街を歩いていたら、声を掛けられた。取り立ててカッコいいとかではなかったけれど、感じの良い、優しそうな人だと思った。少し言葉を交わすと、ユーモアのある人だとわかった。わたしにはなんの予定も無かったから、少しおしゃべりをしてもいいかと思った。何気なくした映画の話で、お互い観たいと思っていたのが同じ映画だとわかった。調べてみると、すぐそこの映画館でやっている。迷う必要があるだろうか。どのみち観ることになる映画なのだから、二人でだろうと一人でだろうと同じだ。そうして二人並んで映画を観た。映画館を出ると、もうそれなりにいい時間だった。わたしも彼も腹ペコで、食事に行かない理由は無かった。彼の選んだお店の料理はとてもおいしかったし、会話も弾んだ。映画の話、お互いのこと。食事を終えて、どちらからともなく少し公園を歩こうということになった。春の気持ちのいい風が吹いていた。話は相変わらず弾んだ。桜が咲いている。
「ねえ」
「なに?」
「今度、ぼくの仲間たちの集まる会があるんだけど」
 聞いてみると、それはある宗教に関する勉強会ということだった。わたしの身構えたことが伝わったのだろう。彼は慌てておかしな会ではないと弁解を始めた。
「とても穏やかで、楽しい会なんだよ。どうかな?」
 わたしの育った家庭は、そうした信仰のようなものとは縁遠いものだった。両親ともにそうしたこととは距離を置くことにしていた。それには深い事情があるらしいのだけれど、それは今ここでは語らない。
 一瞬、わたしは彼の誘いに乗ってみようかと思った。彼の言葉を信じようとしたのだ。信じる。わたしは彼と過ごした数時間を振り返ってみて、彼は信じられるのではないかと思ったのだ。彼は良い人だ。わたしを悪く扱うはずがない。彼なら信じられるかもしれない。でも、彼の神様はどうだろう。わたしはそれを知らない。それを信じられるだろうか。彼を信じられると感じたように、神様を信じられるだろうか。
「どう?ぜひ、君に参加してほしいんだ。こうして楽しい時間が過ごせたし、きっと仲良く過ごせるよ」
 わたしは身を強張らせた。彼の焦りが伝わってきた。
「会を勧めるために声を掛けたんじゃない。こうして楽しい時間が過ごせたから、一緒に参加できないかなって、そう思ったんだ」
「あなたは信じてるの?」
「何を?」
「神様。神様みたいなもの。あなたにとっての神様。あなたの神様みたいなもの」
「君の言うものがどういうものなのかはわからないけど」と彼は息をついた。「ぼくは信じてる。ある対象のことを、強く信じてる」
 わたしは首を横に振った。「わたしには無理よ」彼が悲しそうな顔をするのが視界の端に見えた。「信じられないもの。あなたのことですら」
「そうか」
「ごめんなさい」
 そうして、わたしと彼は別れた。そして、二度と会うことはない。彼は何かを信じていて、わたしはたぶん信じることがときない。

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