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 ある朝、父は長年蓄えていた髭を剃り落とした。
 朝食の席についてそれを見た時、わたしはひどく驚いた。なにせ、父の髭はわたしの物心ついた頃から常にそこにあったのだ。違和感がある。それは父のトレードマークと呼んでもいいようなものだったはずだ。近所でも父の髭は有名で、「髭のおじさん」といえば父のことを指していることがみんなにわかったし、わたしの同級生たちも髭のお父さんとして認識していて、髭こそが父であると言っても過言ではないほどだった。過言か。
 わたしは髭の無くなった父の顔をまじまじと見た。髭が剃り落とされて、鼻の下の、唇までの皮膚が、露になっているのがなにか卑猥にすら見えた。それは初めて見る父の顔だった。生まれてから始めて見る顔だ。髭が無いだけでこれほどにまで印象が変わるものとは想像もしなかった。そもそも父の顔から髭が無くなるなんてことを想像したこともなかったのだ。父にいったいどんな心境の変化があったのか。気になる。ところが、母も弟も気にする素振りを見せない。いつも通りの朝の風景、トーストを頬張る弟、コーヒーを飲む母、新聞を読む父、違うのは父の髭が無いということだけ。誰ものことに触れないのか、それとも気づかないのかがわたしにはわからなかった。当の父もそれ、髭について進んで何かを言おうとはしない。
「髭」と、わたしは言った。
「え?」と母。「あら、ホント」
 やっと気付いてもらった父は、髭のあった辺り、本来髭のあるべき辺りを撫でながら、やや誇らしげに「若返って見えるだろ」とか、それに類することを何か言った。わたしは内心若返ったというよりも貧相に見えると思っていたが、それは口にしなかった。たとえば、ライオンのたてがみが刈られちゃった感じ。でも、まあ、父が気に入っていればそれでいいのだろう。
 その後も父は毎朝きちんと髭を剃り、休日であっても、無精髭の発生すら許さない断固たる姿勢であった。まるで親の敵でもとるように、憎んでいるかのように髭の存在を許さない。それまでの、髭とのあの蜜月とも言える期間はいったい何だったのかと首を傾げたくなるくらいだ。
 アルバムを捲って見れば、そこに写る父の口元には必ず髭がある。わたしがヨチヨチ歩いていた小さな頃から、学校の入学式、卒業式、旅行、親戚の結婚式、エトセトラ、エトセトラ。髭は常に父とともにあり、父とともに写るわたしとともに髭はあった。わたしは髭とともにあった。
「なんで剃っちゃったの?」と、わたしは我慢しきれなくなって父に尋ねた。
「え?ああ、髭か。手入れがね、面倒になってね」と、父は答える。髭を生やしておくのは髭を生やしておくなりに面倒だというのだ。
「ふーん」そこで会話は終わり。質問、答え、終了。わたしはわたしなりに年頃なので、年頃的な感じでしか父と接することができないのだ。すべては年頃なせいだ。わたしは悪くない。むしろよくやっている。
 また生やしてくれというのも考えてみれば妙だし、何も言うべきことはない。そもそも父の髭が無くなったことにわたしがそこまで落胆する必要があるだろうか。ないだろう。ないはずなのだ。ないはずなのだが。
 わたしは行きつけの美容師さんに言って、髪を少し分けてもらってつけ髭を作った。髪質には少しこだわりを持って、堅く、癖のないものを吟味して選んだ。形を整え、父の生やしていたそれに似たものに仕上げた。
 家族が寝静まった真夜中、わたしは洗面所へ行き、鏡の前でそれを自分の鼻の下につけてみる。そして、指先でそれをそっと撫でる。毛先が指を突き、毛はしばらく辛抱して我慢ができなくなると弾けるように元の場所へ戻る。少し厳めしい表情をしてみる。父がそんな表情をした記憶はないけれど、髭をつけるとなんだかそんな表情をしたくなる。ひとしきりそうして、わたしはベッドに入る。髭は、誰にも気づかれない場所に隠して。

No.355

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