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初めての雪

 産まれも育ちも南国の母は、嫁いで来るまで雪を見たことがなかった。母がわたしを産む前の話、母が母になる以前の、まだ少女だった頃のこと。
 母の育った土地は一年中温暖な気候で、冬にいくらか寒い日があるが、それでも羽織るものが一枚あれば問題ないくらいで、とてもではないが雪が降ることはなかった。常夏と言ってもいいかもしれない。
 そんな環境で育ったから、母が雪という概念を初めて知ったのは学校に上がってからだった。教科書に載っていた物語に、雪が出てきたのだ。
「その夜、しんしんと雪が降りました」
「先生」と、母は挙手して言ったそうだ。「この、雪ってなんですか?」
 それは空から降ってくるが、雨ではなく、白くて、ふわふわと落ちてくる、ものだという。それを説明した教師もまたその土地の出身であり、そこから出たことのない人で、教師自身も本物の雪を目にしたことはなかったのだけれど。
 こうして母は雪の概念を知ったわけだが、概念があったところで、実物を知らないで済ませられるほど母の好奇心は穏やかではなかった。母は好奇心旺盛だ。流行りものには飛びつくし、最新機種は一にも二にも手に入れたい、評判の映画や演劇には必ず足を運ぶし、興味を持つとそれがどんなに遠方だろうが、実現に困難が伴おうが、それに向けて挑戦するのが母だ。一度なんて、気に入った小説の作者のところに押しかけ、その作品について小一時間面白おかしく会話をしてきたこともある。その行動力と、その行動力の源になっている好奇心には驚かされることばかりだ。
 結局のところ、母が産まれ育ったその土地を離れることにしたのは、雪が見たかったからではないか、わたしはそう思う。それは母にとって憧れであった。それこそが母の憧れであった。もしかしたら、母が父のところに嫁ぐことにしたのは、そうすることで雪が見られると思ったからかもしれない。
「そんなわけないじゃない」と母は言うけれど。
 母が嫁いで来たのは夏だった。その前にも何度か挨拶で来ていたのだけれど、それも春以降のことだから、雪を見る機会はなかった。結婚し、新生活が始まり、ドタバタと秋を迎え、いくらか落ち着いて来たと思った頃には襟巻きと外套の必要な時期になっていた。そういった冬物の服でさえも、母にとっては目新しいものであった。故郷でそんなものは必要なかったからだ。母は産まれて初めての襟巻きと外套を父と買いに行ったことをまだ覚えているという。
「わたしは赤いのが良かったんだけど、お父さんが駄目だって言ったのよ」
 初めての冬の寒さはかなり堪えたそうだ。それでも、母はそれを我慢した。もちろん、我慢する以外にできることはないというのはあるけれど、雪を見られるかもしれないということが心の支えになっていた。母は寒さに凍えながら、雪を待った。
 しかし、その年は初雪がとても遅かった。待てど暮らせど雪は降らない。母は次第に苛々しだした。
「こんなに我慢してるのに、なんで雪が降らないの?」
「そんなことぼくに言われてもねえ」と、父は苦笑いしたことだろう。
 予報で雪が降ると言われても、蓋を開けてみると曇りで終わる、雨しか降らない。
「雪が降らないなんてことはあるの?」と母。
「どうだったかなあ」と父。
「もっと雪の降る所の人と結婚すれば良かった」
「おいおい」
 父は苦笑いした。
「カーテンを開けると、辺り一面真っ白だった。見慣れてきたはずの町並みが、まるで別世界のように。わたしは自分が夢を見ているのではないかと思った。夢の中で、見知らぬ世界へ迷いこんだんだ。しかし、それは夢ではなかった。雪だ。これが雪なんだ。白いものが落ちて来る。わたしはただぼんやりそれを見ていた。興奮することさえ忘れていた。ただ、雪を見ていた。それがわたしにとって、初めての雪だった」


No.380


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