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愛はとても難しい

 むかしむかし。
 その時代、愛はとても難しいものだった。
 風雨を防ぐ堅牢な家屋も、栄養バランスの整った充分な食料も、病を治す抗生物質も、外科的な手術の技術も無かった時代だ。その時代、人は簡単に死んだ。飢えで死に、凍えて死に、ちょっと風邪をこじらせて死んだ。あまりに簡単で、死の世界はほんのすぐそこにあるようなものだった。
 人々の心にはゆとりがなかった。それもそうだろう。いつ死ぬかわからないような時代である。自分が生きることで精一杯で、他人に、特に他人の不幸にかかずらっている余裕など無かったのだ。飢えた誰かに自分の食べ物を分け与えてしまったら、自分が飢えて死ぬかもしれない。たとえその人が飢えて死んだとしても。これだけでも、少なくともこの時代には友情が難しかったことは理解できるだろう。全ての他人は潜在的に敵なのだ。穏当に言って競争相手である。
 そんな時代に、男は恋をした。とはいえ、その時代には結婚などというきっちりした制度は無かったし、そもそも恋人になるという概念も無かった。いまで言うならば恋人と言えるようなものというものはあって、男はその女とそうなりたいと思った。そして、女を口説き、落とした。
 ふたりは夫婦のようなもの、それは夫婦というよりもつがいと呼んだ方のかもしれないが、そういった関係になり、子をもうけた。男の胸の中には、いまの時代であれば「愛」と呼ばれるべきものが育まれていた。その愛を胸に、その子どもをふたりで育てた。その時代、幸福という概念はとても曖昧だったのだけれど、男は幸福のようなものの中にいた。あるいは、幸福という概念はいつの時代にも曖昧なものなのかもしれないということはこの際脇に置いておこう。
「ああ、俺はなんて幸せなんだ」もしもそういう言葉があれば男はそう呟いたであろう。残念ながら、その時代にはそういった言葉はなかった。とはいえ、言葉がなくともそれはそういうものである。
 しかし、物語の常として、幸福は長くは続かない。女は風邪をこじらせてあっさり死に、子どもたちもその母親のあとを追うように次々に死んだのだった。そうして、男はひとり残された。男は愛のようなものをその胸に抱いてしまっていたので、とても心を痛め、食べ物も喉を通らなくなり、やがて風邪をこじらせ、あっけなく死んだ。
 人々は男のその様子を教訓に、愛を持たないようにした。愛を持たない方が、生きるのに楽だったからだ。愛する人が死んでしまうのは、自分自身が死ぬのと変わらない。もしも愛を胸に抱いていたとしたら。愛は病のように人を殺した。うっかり愛を持った人は、そうして死んでいった。生きるのが困難な時代において、誰かを愛するというのはさらに困難だった。愛を持った人は子孫を残さずに死ぬことが多かった。そうして、愛を持たない人々が生き残るようになり、子孫を残すようになった。子孫を残すのに愛はいらなかった。そういうものである。そして、愛を持たない人々の子孫もまた愛を持たなかった。そうして、いつしか愛を持たない種族が大勢を占めるに至った。
「愛してる?」と女は言った。
「愛してる」と男は言った。
 世界は、愛を知らない。


No.387


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