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金木犀の夜

 秋の宵ほど女の子と出歩いて心地のいい季節はないと思う。できることならば、まだあまりお互いのことを知らない、手探り状態の女の子がいい。出身地やお互いの星座、お気に入りの映画や、好きな音楽の話。当たり障りのない会話をしながら、どうやったらもっと相手のことを知れるだろうかと思案する。そんな関係がちょうどいい。それがもし冬ならば、寄り添い合えるくらいの親密さが必要だろうし、夏だとそうした細かい手続きは飛ばされがちになるような気がする。春は?華やいでいくような雰囲気が苦手だし、ぼくは花粉症なものだから、春が嫌いだ。
 その子とは、バイト先で知り合った。女子大に通っている女の子だ。シフトが一緒になることもあったから、レジが暇な時など、ちょっとした会話はしていたけれど、ぼくは彼女についてそれほど知らなかったし、彼女もぼくのことをそれほど知らなかっただろう。本当にちょっとした会話しかしていなかった。しかしながら、きっかけはそのちょっとした会話の中にあった。不意に新しい映画の話題になった。ちょっと通好みする感じの監督の作品で、詳しくない人ならその名前を聞いても首を傾げたことだろう。
「その映画、観たいと思ってたんだ」
 そんな具合に、二人で映画を観に行くことになった。ちょっとした話をしていた感じ、悪い子じゃなさそうなことはわかっていたし、退屈そうでもなかった。映画の趣味も合いそうだ。服装や髪型もぼく好みだった。恋愛感情を抱いていたというわけでもないけれど、満更でもない、というくらい。
 残念ながら、映画はとても凡庸な作品だったし、その後に行ったレストランでの食事もそれほどでもなかった。しかし、ぼくたちの会話は盛り上がった。趣味が合うとかではなくて、呼吸が合う感じ。ぼくが嫌いなロックバンドを彼女が好きで、彼女が嫌悪している映画監督をぼくが誉めそやしても問題なかった。お互いそのことを笑い合えた。趣味が悪いと言い合っても攻撃的な感じにならなかった。そんなことは初めてだった。幾人かの女の子とそうして二人で出掛けてきたけれど、大抵の場合それはある意味でアスレチック的なものだった。飛んだり跳ねたり、心躍る時もあるけれど、息切れする瞬間もある。そんな感じ。少なからず、それは疲労感を伴うものだったのだ。それがどうだろう。彼女と過ごす時は、高揚感を与えてくれるのだ。食事が済んだ後も、「じゃあ、またね」みたいな感じで別れたくなかったので、公園を散歩することを提案した。風の穏やかな、涼しい秋の夜だった。。暑くも寒くもない。大気がそこにぼくらのいることを祝福しているような気候だ。金木犀の甘い香りがする実に気持ちのいい夜、女の子と散歩するにはうってつけの夜だ。
 ぼくは彼女の様々な面を知ろうと試みた。彼女もまたぼくのことを知ろうとしてくれた。いきなり核心を突くと引かれてしまいそうで躊躇われ、それでも踏み込みたくて、野良猫と仲良くなろうとするみたいにジリジリと近づくような感じ。それが不快ではなく、むしろ心地良いし、楽しくある、そんな感じ。そして、気づくと終電が迫っていた。
「ねえ」と彼女は不意に言った。「賭けをしない?」
「いいよ」ぼくは言った。「どんな賭け?」
「夜が明けるか、このまま夜が明けないか」彼女は囁くように言った。
「簡単じゃないか」
「そう?」
「明けない夜はない」
「じゃあ、そっちに賭ける?」
 ぼくは少し考えた。「いや」ぼくは首を横に振った。「このまま夜が明けないほうに賭けるよ」

No.316

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