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瞳の中

 目の印象的な女だった。豊かなまつ毛が重たいかのように、伏し目がちで、時折こちらを盗み見るように目を上げ、その時覗く大きな黒目は宝石のように輝いた。目と目が合うと、電流でもながれたようになった。わたしの鼓動は高まり、早鐘のように打った。一度目が合うと、それを逸らすことができなかった。いつまでもまじまじと見ていたい、そういう気にさせた。ありきたりな表現になるが、吸い込まれそうな瞳だった。あまりに途方もないものはありきたりな表現しか許さないのだろう。吸い込まれそうなほど深く、美しい瞳だった。
 わたしがなぜその女とそうして指し向かいになることになったのかは覚えていない。覚えているほどの価値も無い理由からだったに違いない。あるいは、その女の目の印象があまりにも強すぎたために、それ以外のことをきれいさっぱり忘れてしまったのかもしれない。後者であったとしても、何らおかしくはない。それほど印象的な目をした女だった。
 わたしが話し始めると、女はその黒い瞳でこちらを見詰めながら話を聞いた。他愛もない話である。それを主導しているこちらでもその他愛もなさ、つまらなさにうんざりするような話だが、わたしが話すことで、女はわたしを見詰めた。見詰めていながら、その視線はこちらを貫き、通り抜け、どこか彼方を見ているようだった。わたしはただ闇雲に話し続けた。女の視線をこちらに向けさせ続けるにはそうしないとならないと思えたのだ。女に見詰め続けていてほしいと願った。女がわたしの話に興味があったのか否かはわからない。女は何も言わず、時折相槌に頷くだけだった。
 最初、それは自分の姿が女の瞳に映り込んでいるのだろうと思った。女の左目、その黒い瞳の中に、人の姿があったのだ。しかし、どうもそれはわたしの姿ではないらしい。興味を覚えて、わたしは女の顔に自分の顔を寄せた。女の瞳がいくら大きいとはいえ、それをまじまじ見るとなるとなかなかどうして、近づかなければならない。わたしはジワリジワリと近づき、気づけば鼻先が触れそうな近さになっていた。あるいは、頬が触れ合うか、唇と唇の触れるような距離である。女の鼻から洩れた息がわたしの頬を撫でた。それほどまでに近づいても、女は嫌がる素振りを見せなかった。奇妙な女だと、あとになってからは思うが、その時はそんなことは一切思わなかった。女の吐息が頬をくすぐった。わたしはそれでも話し続けていた。話をしている限り、女はそうしてじっとしているようだった。
 女の瞳の中の人影は、やはり私のものではなかった。私ではない、誰か別の男の姿であった。男はどうやら女の目の中にいるらしい。こちらが男に気付いたのが男にもわかったらしく、こちらに向かって手を振っている。耳を澄ますと、何か人の声が聞こえる。どうやら男がこちらに向かって何か訴えているらしい。もう女に話をするのはやめてしまっていたが、女は相変わらず身動ぎ一つしないでいる。もう頬と頬が触れんばかりの距離しかない。
 男は言った。「閉じ込められちまったんだ」
「どういうことだ?」と、わたしは男に尋ねた。
「この女には気をつけろ」と、男は言った。
「なぜ?」
「油断すると、瞳に吸い込まれるぞ」
「目に入れても痛くない、か?」
「冗談はよせよ」
「あんた、そこにいるのが嬉しいんだろ?」私がそう言うと、男はニヤリと笑った。そして、目の奥へと引き下がってしまった。
「どうしたの?」と、女は尋ねた。
「いや」
「こっちを見てよ」
 右目で暮らすのも悪くないか、と思った。


No.317

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