酔っ払い
酔っ払いは自分が酔っ払いであることを恥じている。酔っ払いは根が真面目なのだ。泥酔し、ぐでんぐでんになっているような状態はとてもみっともないと思っている。しかし、酔っ払いは酔っ払っている。酔っ払いであるのだから酔っ払っていなければならない。でなければ、酔っ払いとは呼べないだろう。
真面目な気質なもので、酔っ払いは自分が酔っ払っていることを恥じ入り過ぎるくらい恥じている。出来ることならば、そんな羞恥心など忘れ去りたい。無かったことにしたい。では、どうするのか。飲むしかない。飲んで飲んでとことんまで酔って、酩酊して、全て忘れてしまうのだ。
「よくある話だろ?」酔っ払いは呂律の回らない口で言った。「酔っていることを忘れるために酔う。私は人間のクズさ」
そんな酔っ払いだから、誰も彼も相手にしないし、雇おうなんて奇特な人間となるとなおさらだ。だから酔っ払いはいつも一文無し、また酒に走る。
「ああ、私は人間のクズだ」と頭を抱えてまた一杯。
「や、あなた」と声をかけてきたのは不敵な笑みを浮かべる背広の男。スカウトであると名乗る。「サーカスからやって来ました」
「サーカス?」呂律は回らない。
「ええ、サーカスです」と背広の男は大きくうなずいた。「あなた、私どものサーカスに入団しませんか?」
「私は曲芸も軽業もできませんよ」だいたいが、地面を歩くのだって綱の上を歩くようにバランスを取りながらだ。
「いえいえ、何も心配なさらないで結構ですよ」と背広は言った。「何もしなくていいんですから」
「えっ?」
わけがわからないが、とにかく金をもらえるとなれば、こんないい話はなく、いい話には裏が決まってあるものだが、そんなことに思いを巡らすほどの分別が泥酔状態の酔っ払いに期待できるだろうか?二つ返事でサーカスにいくことに決めた。通されたのは大きな窓のある小さな部屋。
「ここで何をしたらいいんです?」酔っ払いは尋ねた。
「いつも通りに生活していただければ結構です」
酔っ払いの仕事がなんなのかはすぐに明らかになった。
「いい話には裏がある」酔っ払いは呟いた。窓の外には観客がぎっしり、酔っ払いを指差したり、笑ったり、中には泣いたりしている。「見世物だ」酔っ払いは溜め息をついた。それを見て観客は喝采。酔っ払うのを見て喝采、酔っ払ったのを恥じ入ってさらに酒を煽るのを見て喝采。
そうこうする内に、酔っ払いの側としてもいい気になってきた。これだけ拍手喝采されると満更でもなくなってくる。今では進んで飲み、酔っ払い、これみよがしに溜め息を洩らすようになった。「はぁ」
No.707
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