鼻歌

 道ですれ違った人が気分良さそうに鼻歌しながら歩いていて、その人はわたしの視線なんかには気づかないくらい集中して鼻歌でメロディを奏でていて、その姿がおかしくて、わたしは一瞬吹き出しそうになったのだけれど、そのメロディがなぜか異様なまでにわたしを打った。聴き覚えのあるメロディなのに、いつどこで聴いたのかがすぐには思い出せない。絶対に聴いたことがある。だけど、いつどこで聴いたのかがわからない。わからないのに、知っている。そのメロディは、わたしの奥深くまで沈んで行った。ゆらゆらと揺れながら。池に投げ込まれた小石みたいに。記憶を辿ってみよう。どこかで底にコツンとぶつかるまで、それについて行こう。
 記憶。
 その人はパスタを茹でていた。 土曜日のお昼。のんびりとした日差しが窓から降り注いでいた。小鳥がさえずっている。遊びに行くのだろう。子どもたちが喚声を上げながら通り過ぎていく。テレビではどうでもいいようなバラエティ番組、世界が平和なことを証明してるみたいで、その光景はまさに平和を絵に描いたような感じだった。
「パスタを茹でさせたら」その人の口癖だ。「オレの右に出る人間はいないね」
「そう」とだけ答えるのが常だった。それ以外に答えようがあるだろうか。正直どうでもよかった。確かに、パスタはなかなかのものだったけれど、そんなに胸を張るものなのかはわからなかった。でも、否定はしない。わたしはその人の台所に立つ後ろ姿が好きだった。
 その人は口笛を吹きながらパスタを茹でていた。平和な光景。口笛を吹きながらパスタを茹でる男。ランニングに短パンで、それを絵にして美術館に飾るとしたらあまり様にならないかもしれないけれど、穏やかで、平和な光景であることは確かだ。
 口笛。聴くとなしに聴いていた。わたしはハッとした。
「その曲」と、わたしは言った。
「ん?」
「なんて曲?」
 その人は微笑んだ。「古い曲さ」
「聴いたことがある」
「そう」
 そう、としか答えようがなかったのだろう。その日、その人が茹でたパスタの味は覚えていない。覚えていられないくらいのパスタだったのだろう。それが平和ってものなのだと思う。
 メロディはさらに沈んで行く。ゆらゆらと、記憶の水の中を。わたしの記憶、わたしの中を、暗い方へ。
 記憶。
 わたしはひどい熱を出して学校を休んでいた。体が燃えるように熱いのに、寒気がする。体の節々が痛い。天井を見上げていると、それが急に迫ってきて、また急に遠ざかる。あるいは逆に、自分の体が急にふくらんで、そして縮んだのかもしれない。わたしは学校のことを考えた。普段なら、仮病を使ってでも行きたくもない学校だけど、そうして体調を崩してみると途端に恋しくなった。自分が不在の教室で、友人たちがじゃれ合っているのを想像する。わたしがいないことになんて、まるで気づかないみたいに。わたしがいないところで、みんなで盛り上がっていたりしたら、とても寂しい。そこに居ないのはなんだか居心地の悪い感じがしたけれど、布団にくるまって寝ているしかない。
 母は仕事を休んでわたしの看病をしてくれた。母はわたしに厳しくあたる人だった。それこそ箸の上げ下げから小言を投げられた。それでもわたしは彼女が好きだった。だから、そうして看病してもらえるのはとても嬉しかった。
 母は鼻歌しながら林檎を剥いていた。母の手の中で、林檎はスルスルと皮を剥がれていく。わたしはぼんやりとそれを見ていた。長く垂れ下がっていく真っ赤な皮、白く瑞々しいその肌。
 母が剥いてくれた林檎はとても冷たくて歯にしみた。
 そして、わたしは眠りに落ちた。母にその曲の名前は聞けなかった。
 記憶の底から浮上する。
 あの曲だ。わたしは振り向いて鼻歌の主の姿を探したが、人混みに紛れてしまって、どの人なのかはわからなかった。
 わたしは今も、その曲がなんという曲なのかわからないでいる。


No.546

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