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 若く美しい僧であった。僧衣ではそのたくましい肉体を隠すことなどできず、剃髪もまた顔の美しさを減じることはできなかった。托鉢に街を回れば、すれ違う人はみな彼の美しさに振り向くのだった。女も、男も、彼の美丈夫ぶりに見とれ、恋に落ちるのだった。
 その出家の理由はさだかではない。武芸にも秀でていたので、どこかに仕官すればかなり優遇されたことだろう。あるいは名を上げ、一国一城の主になってもおかしくなかったかもしれない。むしろ、その器であったと言って過言ではないだろう。それが何の因果か髪を剃り、山に入った。高名な老師のいる寺である。そして、そこで全ての欲から離れ、修行に励んだ。
 若く美しい男であったがゆえ、誘惑も人一倍あったに違いない。一目その若い僧を見た娘たちはたちまち恋に落ち、どうにか誘惑しようと試みた。ただ見とれているだけでは飽き足らない。僧はそれをすげなくやり過ごした。色欲は嫌悪すべきものである。それは修行の邪魔以外の何物でもなかった。
 そうして日々修行に励んだ僧であったが、いつまで経っても自分に満足できなかった。どこまでいっても、自分のうちにある欲が無くなる気配がないのだ。僧は師である老師にそのことを打ち明けた。
「どう足掻いても、欲が無くならないのです。わたしは僧であるべきではないのかもしれない。これはわたしにふさわしくないのかもしれない。そう考えてしまうのです」僧は言った。
「お主は」と老師は言った。「ここの誰よりも修行をしておる。そして、様々な欲に打ち勝っておる。お前ほどの美丈夫だ。言い寄ってくる娘もひとりやふたりではなかろう。そうしたものを跳ね除けておるのだ。誰にでもできることではあるまい。そこまで自分を追い込むな。お主ほど僧になるべき者はおらん」
「しかし」と僧は言った。「わたしには自分が許せないのです。他の誰かがどうかはわたしには関係ありません。わたしにとって問題なのは、わたしのうちの、わたしの欲なのです」
「ならば、修行をするしかあるまい」
「それが苦痛なのです」僧は言った。「修行をすることで、わたしは弱いわたしに向き合うことになるのです。それを突き付けられることが、わたしにはもう耐えられないのです。弱い男だと蔑んでください。事実、わたしは弱い男です」
「ふむ」と老師は唸った。
「山を下ります」
「それは許さん」
「どうかお許しを」
「駄目だ」
 ふたりは黙り込んだ。風が木々を揺らした。
「欲を捨てられぬまま、修行をすることを恥じる必要はない」老師は言った。「わしですら、毎日自分の欲望に直面させられ、自分を恥じておるのだ。しかし、それこそが修行だ」
「それが耐えられないのです」
「耐えられないものを耐えるのが修行だ」
「わたしには耐えられません」僧は首を横に振った。老師はそれをじっと見ている。
 そして、口を開いた。「昨夜、わしは夢を見た」老師は言った。「裸のお主を抱き締める夢だ。これがわしの欲だ。わしはお主を愛しておるのだ。だから、ここを出るなどと言わんでくれ」
 僧はおもむろに立ち上がると、老師に歩み寄った。そして、その枯れ木のような首に手をかけると、老師を絞め殺してしまった。老師は全く抵抗することなく、むしろ満足そうに死んだ。


No.469


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