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ただ、名前を覚えておいてほしいだけだ

 後ろ手に縛られているものの、男は身を捩ったり喚いたりという抵抗らしい抵抗をしていなかった。むしろ泰然としている。黒ずくめの男、真っ黒な背広に、シャツもネクタイも黒の男に車から下りるように促され、後ろ手に縛られた男はそれに従順に従った。辺りには何も無い。何もだ。荒野のど真ん中、遥か彼方に山脈が見える。道路すら無い。
 黒ずくめの男は後ろ手に縛られた男をその荒涼とした大地にひざまづかせた。そして、そのこめかみに懐から取り出した銃の銃口を突き付けた。
「最後に」と後ろ手に縛られた男は言った。「煙草を一本吸わせてくれないか?」
 黒ずくめの男は懐から煙草の箱を取り出し、そこから一本煙草を抜き、後ろ手に縛られた男の口にくわえさせ、そしてそれにライターで火をつけた。後ろ手に縛られた男はそれを吸い込み、口の脇から煙を吐いた。
「清々しいな」後ろ手に縛られた男は言った。
「何が?」黒ずくめの男は自分の口にも煙草をくわえ、火をつけて言った。
「終わってしまったことがだよ」後ろ手に縛られた男は言った。
「まだ終わっていない」煙を勢いよく吐き出しながら黒ずくめの男は言った。「これから終わる」
「同じようなものさ」
「そうかね?」
「終わりつつあるものと、終わってしまったものの間に、それほどの違いがあるだろうか?」
「あんたの理論に従うと」黒ずくめの男は煙草を地面に投げ、踵でそれを踏み消した。「全てのものは常に終わってしまっていることになるな」
「そうかもしれない」後ろ手に縛られた男は短くなった煙草を吐き捨てた。黒ずくめの男がそれを踏み消した。「確かに全てのものが終わりに向かっているならば、全ては既に終わってしまっているな」
「ふん」
「なあ」
「なんだ?」
「あんたはこれまでどんな人生を歩んできたんだ?」
「ごくありきたりの、退屈な人生さ」黒ずくめの男は銃口を後ろ手に縛られた男のこめかみに当てた。
「俺もさ」後ろ手に縛られた男は言った。「たいした人生じゃない。まあ、そんなもんだろう」
「もういいか?」黒ずくめの男は撃鉄を上げた。
「最後に一つ頼みがある」
「本当にこれが最後だぞ」
 後ろ手に縛られた男は頷いた。「俺の名を覚えていてくれないか?」
黒ずくめの男は首を横に振った。「あいにく俺は生まれつき人の顔が認識できないんだ。あんたの名前を聞いたとこで、何も覚えていないのと変わらないんじゃないか?あんたの名前から、あんたを想起することは俺にはできない」
「顔が認識できない?」
「ああ」
「人の顔が区別できないってことか?」
「そうだ」黒ずくめの男は頷いた。「親の写真を見せられても、それが自分の親だとわからない」
「殺し屋失格だな」後ろ手に縛られた男は笑った。「全く関係ない人間を殺しちまう」
「俺はただの処刑人だ」黒ずくめの男は肩をすくめた。「目の前にいる人間を殺すのだけが仕事だ」
「それならこの仕事は天職なのかもな」
「どうかな?」
「まあ、構わないさ」男は言った。「ただ、名前を覚えておいてほしいだけだ」
 黒ずくめの男は頷いた。後ろ手に縛られた男はゆっくり目を閉じた。そして、黒ずくめの男は引き金にかけた指に力を込めた。
 風が吹いていた。


No.235

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