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悪い手

 雑踏には様々な人間がいる。様々な人間が行き交う。これだけ様々な人間がいながら、誰も自分の役割がわからなくならないなんて驚きだ。まあいい。すべてが一点の曇りなく現実であり、ひとつとして作為の入る隙は無い。
 人がたくさんいれば、ほめられない癖を持つ者のひとりやふたりは間違いなくいるものだろう。
「あれ、財布がない!」
「嘘、ちゃんと探したの?そのポケットは?」
「いや、ないよ。あれぇ、どこかで落としたかな」
 そのやり取りから足早に離れる人影。「畜生! またやっちまった!」人影が小声で叫ぶ。「おれの手はなんて癖が悪いんだ」懐に入れた手には財布が握られている。それはおそらく探されていた財布。
「違う、おれじゃない、おれの手が勝手にやっちまうんだ、おれじゃない」とぶつぶつ呟きながら、その手は財布から札を抜き取り、空の財布を植え込みに捨てるという作業をてきぱきとこなす。その間、手元を見るようなことはない。
 悪い手癖である。
「いてぇな、どこに目をつけてやがんだ!」
「ああ、すいません、すいません」
 前は向いているものの、盗んだ財布の処理に夢中でなにも見えてやしないものだから、ガラの悪い男と肩がぶつかった。男の後ろには子分風の男たちが何人か控えている。目が合うだけで震え上がりそうになる。
「すいません、すいません」と平謝りする。そうしてその場を離れようとするが、
「おう、兄ちゃん、ちょっと待ちな!」と男に呼び止められた。「その懐の手に持ったもんを出してみな」
 何のことか、わからないといった顔をしている。しかし、心当たりはある。まさか、とは思うものの。冷たい汗が背筋を滑っていった。ゆっくりと懐から手を出す。握られていたのは、案の定、財布だった。
「てめえ、この方が誰かわかってんのか!」というようなことを、子分風たちが口々に叫ぶ。
「ちがうんです!わたしじゃない。わたしの手が勝手にやっちまうんです」と目に涙を浮かべながら、
「そんな言い訳が通るとでも思ってんのか!」誰も納得するはずはなく、
「本当なんです、信じてください。財布は返しますから」と土下座して財布を差し出すが、いざ渡すとなるとプイッとそれを引っ込める。
「痛い目みねぇとわかんねぇようだな」となる。
「ちがうんです、手が勝手に」もう胸ぐらを掴まれている。
「やめな」と男が低い声で言った。子分風たちが振り返る。
「しかし」
「兄ちゃんの言う通り、その手が悪いんだ、しかたあるめぇ」と息をつく。「しかし、そうなると、その手には罪を償ってもらわなきゃならなくなるなぁ。手だけは帰すわけにはいかねえ、ここに置いてってもらうゼ」


No.873



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