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残酷な世界で

「わたしの夫は」と彼女は語り始めた。「写真家でした。でした。こうして、彼のことを過去形で語らなければならないことに、わたしはいまだに慣れていなくて、不意に彼が帰って来そうな、そんな気がしています。彼は写真家、それも報道写真家でした。だから、家を空けることも多く、それもひと月ふた月なんてのはざらで、かなり困難な地域に赴くこともあり、連絡のつかなくなることもしばしばでしたから、夫が二度と戻らないのだということを納得するのに、夫の不在はなんの役にも立たないんです。不在があの人の普通の在り方だったから」そう言うと、彼女は寂しそうに笑った。
「彼は一枚の写真は世界を変えることができる、そう信じていました。一発の銃弾よりも強く、それは世界を撃ち抜くと信じていました。今になって思えば、夫は純粋で世間知らずだったのだと思います。銃弾が人を殺すように、写真もまた人を殺すことがあるのだということを、その写真を撮る当の本人が理解していなかったのですから。
 彼が主にテーマにしたのは『貧困』でした。世界の様々な貧困。特に、あの大陸での貧困です。わたしが、夫の撮った写真を見るのがあまり好きではなかったのは、そこに写った凄惨な光景から目を逸らしたかったからです。それは多くの人の仕草そのものだったのだと思います。夫がそれを見てもらいたいと願った多くの人々と。
 夫はよく『ぼくらはこの世界を変えられるんだ。この光景が見たくなければ、目を逸らすんじゃなく、世界を変えればいい』と言っていました。栄養失調で痩せ細った子供たち、お腹だけポッコリ出て虚ろな目をして、お乳が出ない母親の腕の中で死にゆく赤ん坊、それが現実にあると思いたくないような光景。もちろん、中には笑顔の子供たちが写っているものもあるのですが、そうした悲惨な光景を見た後では、その笑顔も何か物悲しいものに見えてくるのです。
 そして、夫の撮ったのがあの写真、あなたもきっとご覧になったことのある、あの写真だったのです。栄養失調で痩せ細った手足、お腹だけが出ている小さな小さな子供が、今にも死にそうに地面にうずくまっています。その奥には、大きな禿鷹が、その子供をじっと見ています。まるで、食材を見る料理人のような目付きで。明らかに待っているのです。その子どもが死んでしまうのを。
 その写真は、瞬く間に世界を駆け巡りました。貧困を、飢餓を伝えるものとして、世界に衝撃を与えました。それは世界の残酷さ、そうした状況を作り出した残酷さ、そしてそれを見ないふりをし続ける残酷さを突き付けていました。その写真で、夫は世界的な賞を受けることにもなりました。夫はその一枚で、名声を手にしたわけです。ですが、同時にその写真は非難の的ともなりました。『なぜその子を助けなかったのか』と。夫は、その写真を撮った後に、その子がどうなったのかを決して語ろうとはしませんでした。妻であるわたしにすら。
『写真が語ること以上に、何を語ることがあるんだろう』
 最も追い詰められた時にいたってなお、夫はそう言っていました。それは写真家としての矜持だったのかもしれません。もとから口下手な人で、わたしへのプロポーズだってへまをした人ですから、弁解をしようとしたところでそれをうまくやりおおせたとも思いません。だからこそ、彼は写真と言う表現手段を選んだのでしょう。しかし、写真家として意地を張ることで、夫は追い詰められて行ったのです。逃げ道を作ろうと思えば作れたはずなのに。
 結果として、夫の放ったその一発の銃弾、いえ、一枚の写真が射抜いたのは、夫自身でした。世間の非難に耐えきれなくなった夫は、酒に溺れ、酩酊した状態で自ら死を選びました。違います。夫はそれを選んだのではありません。追いやられたのです。殺されたのです。誰に?さあ、わたしにはわかりません。
 ねえ、世界はとても残酷だと思いませんか?」

No.258

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