心を売る

 心を売った。比喩表現とか、もののたとえとかではなくて、正真正銘、わたしの心を売ったのだ。売って、その代金をもらう。心が売れるなんて思ってもみなかったから、そんな申し出があったときにはとても驚いた。
「みなさんそうおっしゃいますよ」心を買い取りに来た業者のおじさんはそう言いながら笑った。「だいぶ怪しまれるものです」
「はあ」と、わたしは気の無い返事をした。だいぶ怪しい感じのおじさんだった。
 わたしはわたしの心を差し出した。それはビー玉のような小さな玉で、日の光を反射してキラキラと輝いていた。
 おじさんはそれを受け取ると、ルーペを使って細かいところまで調べ始めた。
「ほう」と、おじさん。
 わたしはじっとして待っている。まるでエサを待つ飼い犬みたいだ。
「ほうほう」と、おじさんは言いながら、さまざまな角度からわたしの心を見ている。
「まずまずですな」ひと通り見終えると、おじさんはそう言った。自分の心を「まずまず」と評価されて心が痛んだかと言えば答えは否だ。なにしろ、痛むべき心が無い。痛むはずがないのだ。心を売っておいて良かったのかもしれない。
「ほら、ここ」と、おじさんはわたしの心をわたしの顔の前に差し出す。「傷があるでしょう?ここにも。これだと、ちょっと評価額は下がってしまうんですよ」
「はあ」
「心は繊細なものですからな」
 その傷が、いつついたものなのか、少し考えてみたけれど、わからなかった。たぶんそんなものだろう。
 おじさんは電卓を叩き、それをわたしに差し出した。なかなかの金額だった。わたしがそれまでに売ったどんなものよりも高額だ。まあ、それでなければ売る甲斐がない。
 わたしがなぜ自分の心を売るにいたったのか? それは実に簡単なことだ。シンプルにお金が無かった。部屋の中はがらんどうだ。ものが一切ない。これはわたしがものを持たない主義の持ち主だからではなく、ひとえにお金を持たないからだ。じきにその部屋も追い出されることになる。
 そこまでお金が無いのがなぜなのかは語りたくない。どうしようもない理由で、そんな話を聞けばきっとわたしのことを叩きたくなるだろうし、これまでもさんざん叱られて来たから、もううんざりだからだ。
 反省が足りないのかもしれない。それでも、叱られるのはイヤなものだ。
 金欠も極まって、ついには心か、体を売る以外に無いところまで来てしまったのだ。思えば遠くへ来たものだ。まだ子どもだったころのわたしは、自分が大人になったときにこんな目にあっているなんて思ってもみなかっただろう。
 卒業アルバムの将来の夢、わたしはなんて書いたっけ?
「どうしたの?」と、友人がわたしに尋ねた。居酒屋のぼんやりとした照明の空間に、ふうっと煙草のケムリを吐く。「心ここにあらずって感じだけど」
「それがさ」と、わたしはビールをグイっと飲みながら言った。あ、居酒屋の会計は友人持ちだ。友人もわたしがお金を持っていないことは知っている。「心を売っちゃってさ」
「は?」
 わたしは友人に事情を話した。「だから、わたし今日、心無いことを言うかもしれないから、その時はごめんね」
 それを聞いて友人は大笑いした。大爆笑と言ってもいいくらいだ。もしもわたしがお笑い芸人とかだったのなら、心の中でガッツポーズをするところだろうけれど、あいにくわたしはお笑い芸人ではないし、そういえば心も無いから心の中でガッツポーズもできない。
 友人は笑い続ける。
「いや、そこまで笑わなくても」無いはずの心も痛みそうなほど笑われている。
「バカな真似したね」と、友人は笑いで途切れ途切れになりながら言った。「ホントバカだよ」
「うるさいなあ」と、わたしは唇を尖らせる。
「よろしい」と、友人は言った。「その心、わたしが取り返してあげよう」
「え?」
「大丈夫」と、友人はウインクをした。「心当たりがあるんだ」
 それから数日後。心を売ったお金でどうにか追い出されなかった部屋の中でぼんやりとしていると、友人が突然やって来た。
「へへへ」
「なに?」
 友人はズボンのポケットをまさぐっている。そして、なにかを握るとそれを引き抜き、握ったままわたしの目の前に差し出した。
「なに?」わたしは怪訝な顔をする。
 友人が手を開いた。そこにはビー玉のような小さな玉。わたしはそれを手に取る。ところどころにある傷を見るに、それはわたしの心のようだ。
「取り返してきてやった」と、友人が笑う。
「どうやって?」
「秘密」
 友人のポケットの中にあったそれは、その中で温められていたのだろう。心なしか少し温かかった。
 心温まる話でしょ?
「バカか、あんたは」と、友人が言った。


No.757
 

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