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酋長

 焚き火の明かりに照らされた女の肌は、その焚き火の赤い光の中ででも透き通る白さであった。女は立ち上がると、身に纏っていた衣服するすると脱いだ。旅人はそれを茫然とした心持ちで見ていた。薪がはぜた。女が微笑んだ。その女が自分の妻となるのだ、という事実を旅人はその時点でも完全に理解できずにいた。まるで夢の中の出来事、現実とは思えない。なにからなにまでが急展開だったのである。もとい、旅人はもはや旅人ではない。その女を妻とすることで、その土地に住まう部族の酋長となるのである。
 行き倒れになっている酋長、今では前酋長となる老人を助けたことが始まりだった。
「なんとお礼を言っていいのやら」酋長は言った。
「礼には及びません」旅人はそのまま立ち去ろうとしたのだが、呼び止められた。
「いけません」酋長は言った。「我々の部族の掟で、なにか助けを受けた時には、必ず返礼をしなければならないのです。さもないと」
「さもないと?」
「わたしの魂は悪魔に食べられることになるでしょう」
「こうなると」と旅人は言った。「わたしはあなたを二度助けたことになってしまいますね。一度はあなたの命を、もう一度はお礼を受けることであなたの魂を」そう言って旅人は笑った。
 旅人は酋長に付き添って、その部族の住む集落へとやって来た。彼らの住まうテントがいくつも立ち並んでいる。かなりの大所帯であるようだ。
「このお方がわたしを助けてくださったのだ」酋長は部族の人々を集め、旅人を紹介した。「これ」と、その人垣に向かって手招きをする。「わたしのひとり娘です」それは透き通った肌と、目鼻立ちの整った美しい顔を持った娘だった。それだけでない。どう我慢しても視線が胸の辺りにいってしまう。旅人は鼻の下を伸ばした。
「お礼に」と酋長は娘の肩に手を置く。「この娘をあなたに差し上げましょう」娘は頬を赤らめ、俯いた。旅人は事態が飲み込めずに茫然としている。「この娘を嫁にもらってくだされ。そして、わたしの跡を継いで、酋長になってもらいませんかの」
 目覚めたとき、傍らで眠る妻の寝顔を見て、旅人はようやく物事が飲み込めた気がしてきた。この美しい女を妻にし、この部族の酋長になるのだ。しかし、酋長は何をするものなのだろう。旅人は疑問に思った。まるで想像もつかない。あの前酋長に教えを乞おう。そう思って、旅人は妻を起こさぬようにそっと彼ら夫婦の新居であるテントを出た。すると、テントの前には部族の人々が集まっていた。その一番前に、前酋長がいる。
「あなたに酋長の務めを果たしてもらいに集まりました」前酋長は言った。「今、我々は飢饉にさらされています。農作物は育たず、狩りに行っても収穫がありません。みな腹をすかしています。どうにかしないとならない」
「わたしに何ができますか?酋長は何をしたらいいのです?」
「神に祈るしかありません」
「祈りましょう」
「生け贄を捧げて」
「生け贄?」
「神は生け贄を欲しています」
「捧げましょう。それで飢饉が終わるのなら。どの動物を捧げたらいいんです?」旅人はあたりを見回す。
 人々が旅人にゆっくりと近付いてくる。
「なんです?なんなんですか?」
「これは掟なのです。酋長は、みなのためにその身を神に捧げなければならないのです」


No.388


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