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あの、青

「朕はあの青を所望する」と、皇帝は大海原を眺めながら言った。「あの、青だ」
 それを聞いた宰相は、皇帝のその発言が制海権を望むという比喩表現に違いないと考えた。青とは海を指し、その海を欲するということは、つまり自由に扱える海を手に入れることの同義なのだと考えたのだ。
 そこで宰相は将軍たちに命じ、軍艦を何艘も作らせ、兵を募り、大艦隊を編成して、近隣の沿岸国をことごとく攻め滅ぼし、あるいは属国にした。皇帝の軍隊は冷酷で残虐、反抗すれば女子供であろうと簡単に殺した。そうした噂が潮に乗って広まったから、攻めるまでもなく降伏するような国も現れた。そうして、皇帝は世界中の海を支配下に置くにいたった。宰相は皇帝に褒められるものと上機嫌だった。これで皇帝陛下も満足なさるだろうし、自分の評価も盤石のものになるだろう。
 当然と言えば当然だが、その過程で多くの血が流れた。真っ赤な血である。多くの大地と海が血の赤で染められたものだから、人々は皇帝がその赤を見たいがために繰り返し侵略戦争を行うものだと噂した。
「朕が望むのは赤ではなく」と、意気揚々と謁見に臨んだ宰相に向かって皇帝は言った。「青だ」
 宰相は悟った。自分が考え違いをしていたことに。皇帝のご所望していたものが、自分の考えていたものとは違うということに、その時気づいた。そして、それはすでに手遅れだった。宰相の頭は胴と分かたれ、辺り一面が血の赤に染まった。皇帝はため息をついた。「また赤だ」
 後任の宰相は皇帝の言葉を字義通り受け取った。青である。海の青。皇帝陛下がご所望なのは言葉通り、その青なのだ。
 そこで、宰相は国中にお触れを出し、腕利きの絵師を集めた。
「海の絵を描くのだ」宰相は絵師たちにそう言った。「死にたくなければ、皇帝のお眼鏡に叶うようなものを描くのだ」
 腕利きの絵師たちがそれこそ死に物狂いで描いた絵である。それの絵はどれも本物の海と見まがうようなものばかり、潮の香りがするというものもいれば、その海水に足を浸してみようとするものもいた。宰相は満足した。これなら皇帝陛下も満足なさるに違いない。
「朕が求めたのは」と、無数に並べられた絵を見た皇帝は言った。「あの、青だ」
 宰相の首が飛び、それに続いて絵師たちの首がことごとく切り落とされた。例によって、辺り一面血の海、真っ赤に染まってしまった。国の絵師という絵師が命を落とし、それほどの腕でない絵師もその知らせを聞くと筆を折ったので、帝国ではまともな絵を描ける人間がまったくいなくなってしまった。後世、歴史家はこの事件をあれこれ解釈することになるのだが、歴史資料はそれを明らかにしない。そこに皇帝が青を求めていたことが書かれていないからだ。それは謎の絵師弾圧事件として記録され、謎のままである。
 これは別の話だ。
 皇帝は後任の宰相を伴って、海辺にやって来た。
「朕が望むのは」と、海原を指さし言う。「あの、青だ」
 宰相は指さされた先の海に飛び込んでいき、桶でそれを救い上げる。そして、皇帝のもとに戻って来て、それを見せる。皇帝はそれを覗き込み、しばらくすると顔を上げ、宰相の首を刎ねる。宰相が手にしていた桶が砂浜に落ちる。その中にあるのは、透明な、透明な水。
「これは朕の望むものではない」
 皇帝は海に向かって歩き出した。おつきの者たちが懸命にそれを止めるが、皇帝はそれを振り払う。
「あの、青だ」
 ザブリ、ザブリと、波が皇帝を弄ぶ。皇帝はそれに怒り、抗い、水平線を目指す。
「あの、青」
 ひときわ大きな波が皇帝を飲み込んだ。そのあと、皇帝の姿を見たものは誰もいない。ほどなく、侵略した国々の反乱が原因で、帝国は瓦解する。


No.558


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