見出し画像

夜には晴れて星が出るでしょう

「あの、あなたってあの人に似てますよね」と言われれば、誰だってその「あの人」が誰かが気になるところなのに「あの人、あの、なんて言ったっけな。名前が出てこない」となるとさらに気になる。
 ヒントではないが、その「あの人」が何をやっている人なのか、例えばスポーツ選手、歌手、俳優、その他諸々だとか、他にも細々とした年齢やらなんやら、あれこれ情報が挙げられるが、いっこうに「あの人」が誰なのか、手掛かりすら掴めない。
 周りの人も、その条件に当てはまると思われる人を挙げていくが、どれも違うらしい。
「ほら、あの人だよ。あの人。この顔を見てたら浮かんでこないですか?」 言い出した人はそう言う。
 誰も彼も首を傾げるばかり。なんとも、そんな具合にジロジロと顔を見られるのはかなわない、と内心思った。その後も幾人かの名前が挙げられたが、どれも違うと却下され、結局のところ、それが誰なのかわからずじまいで終わることになった。
 帰宅し、事の一部始終を妻に話すと、妻も顔をジロジロと見てくる。
「誰だろう?」
「うーん」
 ここで正解が出たところで、それが本当に正しい答えかどうかはわからないのにもかかわらず、妻は幾人かの名前を挙げた。どうにもそれが正しいとは思われない。自分の顔は自分が一番よく知っているはずだ。挙げられた人々を思い浮かべるに、どれも自分には似ていないように思われたのだ。
「でも」と妻は言った。「自分の顔を自分で見ることなんてできないと思うけど」
「毎日見てるさ」と答えた。「髪を整える時や髭を剃る時に」
「それは鏡ででしょう?」と妻はあくびをしながら言った。「それは左右反対の顔よ」
「ふむ」その晩は答えを探すことを諦め、床に就くことにした。どの道いくら頑張ったところで、答えはわからないのだ。答え合わせのしようがない。あるいは、真夜中に言い出した人に電話するか。それほどのことでもあるまい。これには答えがでないの。なぜなら、答えがここにないから。宇宙に始まりがあるのかとか、時の流れは永遠なのかといった問いと同じように。答えは出ない。まあ、局所的に見れば。
 こんな夢を見た。空中を漂っている夢だ。ふわふわと、まるで水の上を漂うように宙に浮いている。下を見ると、男が目をつぶっていた。どうやら眠っているらしい。軽く開いた唇から、息が漏れている。その傍らには、妻の寝顔があった。わたしの妻だ。その隣に寝るとは、間男だろうか、と思った。そんな疑いがよぎっても、別段傷つきもしなかった。どこかで、それは夢であると理解している夢だった。ただ、そんな夢でも気になったのが、男の顔にどこか見覚えのあったことだ。漂いながら、うまい具合に男の顔の直上へ自分の持っていき、まじまじと眺めてみた。それは間違いなく見覚えのある顔なのだ。ところがそれが誰の顔なのかを言い当てることができない。見覚えのある、いや、頻繁に見ている顔。
 そうか、と一人で合点がいった瞬間に、男が目を開いた。そうか、これは自分の顔なのだ。初めて見る、自分の顔。鏡で左右反転していない自分の顔だ。果たしてどんな表情で自分の顔を見ていたのか。とりあえず、それまで見つめられていた顔は、宙に浮いて自分を見ている顔を見て、それが誰なのか飲み込めないらしく、ただただその状況に驚いている。まあ、目を覚ましたときに見知らぬ顔が目の前にあれば誰だって驚くだろう。それが自分の顔と知れたらさらに驚くだろうか。それはわからない。そこで目が覚めてしまったからだ。
 朝、妻にその夢の話をすると、妻は退屈そうに相槌を打ちながらひとしきり聞いていた。まあ、他人の夢の話は概してつまらない。
「自分の顔だとわからなかった」
「夢の話でしょう?」
「まあ、ね」 コーヒーを一口飲む。「自分のことって、わかっていないものなんだな」
「そんなことも知らないの?」と妻は微笑む。「あなたは自分自身のことなんてこれっぽっちもわかってないのよ」
「君はわかってるの?」
「なにが?」
「ぼくのこと」
「もちろん」と妻は自信満々だ。
「知らなかった」わかっていないこと、知らないことばかりである。
 朝のニュースの占いで、妻の今日の運勢は最悪であることが告げられた。運気を上昇させるには赤い折りたたみ傘を持って出かけるといいらしい。そんなものが果たして我が家にあったかどうか。
「もしかしたら」と妻が言った。「こないだあなたが誰かに似ているって言ってた人、あなたに似ていたのかもね。見覚えはあるけど、知らない顔」
「そんなばかな」
 天気予報によると、夜は晴れて星がよく見えるらしい。



No.127

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?