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ぼくはぼくで誰かじゃない

 彼女の夫は、普通一般の人々よりも高い報酬が約束された立場にあり、それと比例するだけの地位を持ち、もちろんそのことは必ずしも人間的な優劣や人間性のようなものには相関しないものだが、優秀であり、かつ人間性も素晴らしかった。語気を荒げ怒鳴り散らすこともなく、めんどうな家事も自分でやり、子どもたちと遊ぶのが大好きで、寝る前に絵本の読み聞かせをするのは彼の役目だったし、当然彼女にも優しく、それは恋人時代と変わらぬ誠意と愛を持って接し、家族に惜しみ無い愛を注いだ。彼女は幸福だった。波乱万丈とは無縁、劇的なことは無いかもしれない。しかし、それが幸せなのだ、と彼女は思っていた。
 ある夜、彼が子どもたちを寝かしつけ、ふたりで語らっていた時のことだ。夫は急に改まった様子になって言った。
「もしかしたら、ぼくはぼくではないのかもしれない」
 彼女は当惑した。夫にはとても感じのいいユーモアのセンスは備わっていたものの、たちの悪い冗談を言うような人ではなかったし、様子を見るに、冗談を言っている風でもなかったからだ。それは彼のいちばん奥深いところから発せられた言葉のようだった。
「どういうこと?」彼女は尋ねた。「あなたがあなたでなかったら、あなたは誰なの?」
 夫は何も答えなかった。
「もしかして、いまの生活に何か不満があるの?いまの生活をしているあなたは、本当のあなたじゃないってこと?」
「いいや、なんの不満もないよ」
「仕事で何かつらいことがあった?」
「万事順調さ」
「じゃあ」と、彼女は力なく言った。「あなたがあなたでないかもしれないって、どういうことなの?」
 夫はまた何も答えなかった。しばらくの間、彼女はそのまま答えを待ったが、答え自体与えられることはなく、そして、何事も無かったかのようにふたりで床に就いた。
 翌朝、夫はいつもと変わらずに起き、朝食を済ませ、身支度をしている。彼女はそれを見詰めていた。それは他の誰のでもない、彼の朝の習慣であり、その髭を剃る仕草、歯の磨き方、その他もろもろはまさしく夫のこれまでにやって来たものに間違いなかった。どんな違和感もそこにはなかった。彼女の夫は彼女の夫であり、他の誰でもない。
 もしかしたら、彼はひどく疲れているのかもしれない、と彼女は思った。仕事はその地位に比例するだけ忙しく、日付が変わる頃に帰ってくることだって珍しくない。
「なんだい?」彼女の視線に気付き、夫は尋ねた。
「ねえ、あなた、疲れているんじゃない?」彼女は言った。
「平気だよ」と言って笑みを浮かべる。「いってきます」
 夫が出勤し、彼女は考えた。彼が彼でないならば、彼は誰なのだろう?彼女にとって、昨夜までも、今朝も、変わらず夫は夫だった。しかし、彼は自分が自分でないかもしれないと思っている。おそらくそういうことなのだ。その事実は、口内炎のように彼女に残った。
 ところが、彼女にそんな気持ちを植え付けた張本人である夫はと言えば、それまでと変わらず、よく働き、また家族に愛を注いだ。以前とまるで変わりなく。
 そして月日は流れ、彼女も夫も年老いた。彼女には相変わらず夫が誰なのかがわからなかったし、夫も二度とその話題を持ち出すことはなかった。いつだったか、彼女はこう思うことに決めていた。彼は彼でないかもしれない、彼は誰かなのだ、と。それはなんの効果も及ぼさないような決意だったが、彼女はとりあえず幸せだった。
 あるいは「あなたはあなたよ。他の誰でもない」と、彼女が言ったら、何かが変わっただろうか?それはわからない。そう言わないのが彼女であり、彼女は彼女で、他の誰でもないからだ。


No.351

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