チャンプ

 チャンプの引退発表で街に激震が走った。
 チャンプは街の住人達の英雄だった。ある者にとっては誇りであり、ある者にとっては希望であり、ある者にとっては全てだった。
 連戦連勝の負け知らず、リングの帝王。いや、リングだけではない。勝利を重ねることで金も名誉も手に入れ、チャンプに出来ないことなど無い、誰からもそう思われていたし、本人自身が強くそう信じていた。リングの外であろうとチャンプの行く手を阻むものは無い。チャンプはリングの外でも帝王なのだ。
 常々、チャンプは豪語していた。「俺に不可能なんて無い。お望みとあれば月を叩き割って見せてもいいぜ!」
 そして、その発言は並みのボクサーであれば失笑で迎えられだろうが、その発言がチャンプの口から出たとなると、もしかしたら、と誰もが思わざるをえなかった。月の地面に拳を打ちつけるチャンプ、バカっと、月が割れる。そんな、馬鹿馬鹿しいマンガじみた光景を、誰もが想像したほどだ。
 そんなチャンプが引退を決意した理由は、誰にもわからなかった。試合の方はと言えば、相変わらずの連勝街道まっしぐら、その力は陰りを見せる気配すら無く、対戦相手が気の毒になるくらいだったし、どこか大きな怪我をしたわけでもないという。チャンプは変わらずチャンプであり、これからもチャンプであり続けるだろうと誰もが思っていた。それだけに、引退発表は突然の、理解不能な事態として受け取られたのだ。
 往々にしてあることだろう。理解不能な事態が起きると、人々はあることないこと考えだす。様々な憶測が乱れ飛んだ。ギャングに脅されている。まさか、チャンプなら一撃で撃退するだろう。実はチャンプは死んでいて、いまメディアに出て対応しているのは影武者だ。まさか、どこからどう見ても本物だし、噂を吹き飛ばすと言ってサンドバックを吹き飛ばすような真似は影武者にはできないだろう。
 どの噂も、完全無欠のチャンプの前ではどれもこれもおとぎ話のように聞こえ、どれ一つ信憑性を持たなかった。
 チャンプはその理由について一言だけ「個人的な事情だ」と語っただけで、それ以降は完全に沈黙を続けた。
 引退を発表したそばから再起を待ち望む声が街中に溢れた。チャンプの広大な屋敷の前にはファン達が集まり、チャンプの復活を期待するプラカードを掲げ、声を上げている。
 チャンプの妻はソファに深々と沈んだチャンプの手の甲にそっと自分の手を重ね、優しくチャンプに語り掛けた。「あなたのファンの声が聞こえるでしょう?みんなあなたを待ち望んでいるわ。また、リングに上がることは出来ないの?」
 チャンプはかぶりを振った。「無理だ」
「一体どうしちゃったの?」妻は大きく息を吐いた。
「引退を発表する前の日、カフェに行ったことを覚えているか?」
「ええ、ウェイトレスがへまやらかして、あなたのスーツにコーヒーの染みを付けたのよね。本当に頭に来たわ。あなたがあれだけ怒ってくれて、私すごくスッとしたのよ」
 チャンプは黙ったまま妻の言葉を聞いていた。
「あの時みたいな、威厳のある、強いあなたに戻ってよ」
「あの時、俺は自分に出来ないことがあるのを見つけてしまったんだ」
「あなたに出来ないことなんて無いわ」妻は首を横に振った。
「あったんだよ」チャンプが深い溜め息と共に言った。
 二人の間に沈黙が漂い、外のファン達の叫びがさざ波のように滑り込んで来る。
「出来ないことって、一体何なの?」
「許すことさ」チャンプは言った。「こんなに難しいことが存在するなんてな」
 チャンプの横顔には威厳も、強さも、その影も形も見えなかった。


No.378


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