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サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ

「ええっ!?」と、少年を思わずその席から立ちあがらせたのは少女の一言だった。
「引っ越すことになりました」と、少女は教壇の上、教師に付き添われながら言ったのだった。
 少年が急に大声を上げたものだから、教室中が彼を見た。
「どうした?」教師が尋ねた。おそらく、その教室にいた誰もが思ったことだろう。クラスメイトたちの視線もそれを尋ねている。
「あの、ええと」と、少年は言いよどんだ。「ちょっと、寝てて、変な夢を見て」
「こら、寝ぼけてるんじゃないぞ」と、教師の叱責が飛び、教室中が笑いに包まれた。教壇の上の少女も笑っている。少年はぼんやりとその笑顔を見ていた。その笑顔が見られなくなるのだという事実が、まだ飲み込めずにいた。そして、笑いがやんだあと、少女はなにかを、おそらくその引っ越しの経緯だとか、これまでの感謝だとか、その他もろもろを話したのだろうが、少年の耳には何一つとして届いてはいなかった。いつ?どこに?どうして?どうして?どうして?どうして?少年の疑問の答えは少女の言葉の中にあっただろうが、少年には届いていなかった。
 まだ携帯電話も普及する前、電話機は一家に一台だったころのこと。
「あともう少しだけど、よろしくね」と、少女が少年の隣の自分の席に座りながら言う。
「え、ああ」と、少年は動揺を気取られまいとする。
「今学期の終わりまで」
「ん、うん」
 席替えの時、その場所を引き当てた瞬間、心の中で小躍りしたのを、少年は思い出していた。人生で一番うれしかった出来事が何かを尋ねられたら、少年はその瞬間を上げたかもしれない。もちろん、表立ってではなく、内密に。きっと、誰にも言わないだろうけど、心の中で。とはいえ、隣の席になったからと言って、気軽に話しかけるような度胸は彼には無かった。男兄弟の中で育った彼は女子と話すのが苦手だったし、そもそも人と話すのが苦手だった。いつだってぎこちなくなって、どこか途中で放り出してしまう。そうなるのが怖くて、とてもではないが少女に話しかけることなどできない。いっそ、もう少し離れた席であったなら、彼女の後姿でも盗み見ていられたかもしれないが、すぐ隣となるとそれもできない。少年は全身で少女の気配を感じる。それだけでも、彼は幸せだった。その幸せが、ずっと続けばいいと思っていた。もちろん、そんなことはないのだということは理解していた。また席替えはあるだろうし、クラス替えもある。卒業し、進学する先が別になるかもしれない。永遠なんてない、少年もそれはわかっていた。
 しかしながら、別れがそんなに急に来るなんて。
 携帯電話の普及する前、インターネットなんてないし、互いに連絡を取る術がまだまだ少なかった時代のこと。
 それからの少年の日々はカウントダウンだった。時限爆弾の残り時間が減っていくような日々だ。学期末にそれはゼロになる。それまでに。それまでに?それまでに何をどうすればいいのか、少年にはそれがわからなかった。それがわかっていたけれど、どうすればいいのかがわからなかった。どうやって、どんなふうに、なにを伝えればいいのか。自分が何を求めているのか。
「で?」と、少女が言う。「どうしたいの?」
 少年の頭の中でのイメージトレーニング。イメージトレーニングの中ですら上手く行かない。どうしたいの?どうしたいのだろう?それは少年が聞きたいことだ。どうしたいの?
「ああああああ!」と、少年は自室で頭を掻きむしる。
「うるさい!」と、少年の兄が怒鳴り込んでくる。
 少年は部屋から飛び出し、夕暮れの河川敷まで走る。そうして、土手で川に向かって「ああああああ!」と叫んだ。犬の散歩をしていた老人が驚いて振り向いた。
 そして、ゼロ。ついにその日がやって来た。もちろん、少年はその日々を無為に過ごしたのだ。いや、表面上は平静を保っていたから、誰もそれに気づかなかったかもしれないが、煩悶しながら過ごした。無為に、煩悶しながら。しかしながら、時は無情で、その日はやって来た。
「今日までありがとうございました」と、少女は言い、別れることになるクラスメイトたちひとりひとりと握手をしていった。教壇の上の彼女の前を、クラスメイトたちは列をなして握手をしていく。女子たちは大袈裟に別れを惜しんだりしている。涙を堪えている様子の女子もいる。
 少年の番だ。少女の手が差し出される。少年はそれを握る。かぼそくて、折れてしまいそうな指。なにか言わないと。
「げ、元気で」とだけ、少年は言った。
「うん」とだけ、少女は答えた。
 放課後、茜色に染まる空を見上げながら少年は「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と呟いた。


No.450


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