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この世のすべて

 大王がいた。大王は先代の王であった父から受け継いだ自国の領土を数倍にもし、富を数十倍にした。人々はその凱旋のたびに歓声をもって大王を迎えたものだった。偉大な王であった。王はすべてを手に入れたと言っても過言ではなかった。少なくとも、当時の人々がこの世に存在すると考えていたものすべて。誰もが大王を畏れ、そして敬った。
 大王の国には徳の高い僧がいた。幼い頃から一心に修行し、苦行も厭わず、悟りのためにその人生のすべてを捧げた人だった。その説教に、多くの人が涙を流し、迷える人々に救いの手を差し伸べた。誰もがそんな僧を敬った。僧は清貧を旨とし、何も持たずに道端で暮らしていた。
 ある時、大王が僧の前を横切った。大王は高僧の誉れ高いその僧の噂を耳にしていたので足を止め、僧に話し掛けた。
「お前は徳の高い僧だそうだな。それにしてはみすぼらしい格好をしておる。欲しいものを言ってみろ。なんであろうと、お前の望むものをくれてやろう」
 僧は鼻で笑った。
「何がおかしい?」
「あなた様は物を持つことが良いことと思っていらっしゃるようだ」
「その通りだ。それがおかしいか?」
「わしは何も持っておらん。だからこそ、何も失うことがない」
「余は全てを持っている。しかし、そのどれも失うつもりはない」
 ほどなく、大きな戦があった。大王は陣頭指揮を執り、先陣を切って戦い、相手国を撃ち破ったのだが、傷を負い、それがもとで腕を一本失うことになった。
 隻腕となった大王は還ってくるなり僧のもとへ赴き、家来たちに命じて僧の両腕を切り落とさせた。僧は悲鳴はおろか、呻き声さえ上げなかった。ただ、その傷口から滴る血の地面を打つ音だけがしていた。大王は表情ひとつ変えずにそれを見ていた。両腕を失った僧はひざまずき、うずくまり、見下ろす大王を見上げた。
「貴様にも失うものはあったようだな」大王は言った。
「さようでございますな」僧は額に汗を滲ませながら言った。
 大王はさらに家来たちに命じ、僧の両足を切り落とさせた。やはり僧は悲鳴も呻き声も上げなかった。傷からは血が溢れ、血溜まりを作っていた。家来たちは自分たちの所業に恐れおののいていた。高僧を傷つけた自分たちには何か災いが降りかかるのではないと気が気でなかった。それでも大王は相変わらず顔色ひとつ変えずに僧を見下ろしていた。
「余は何も失わない」大王は言った。
「あなた様は全てを失うことになるでしょう。なぜなら、すべてを手に入れたのだから」大地に横たわり、僧は喘ぎながら言った。
 大王は家来に命じ、剣を残った腕に受け取ると、その握った剣を振り下ろし、僧の首を跳ねた。僧の首は悲鳴も呻きも上げず、自分の体と分かたれたにも関わらず、実に安らかな顔をしていた。
 大王は僧の亡骸に向かって言った。
「貴様は何も失わなかった」大王はどうにかそう口にした。歯噛みし、それは苦悶の表情と呼ぶ以外にないものであった。
 それからしばらくして、なにかに憑かれたようにさらなる領土拡大のために遠征していた大王は、その野営地で病を得て死んだ。高熱を出し、三日三晩苦しみ、そして死んだ。従軍していた侍医の懸命の看病もその甲斐なかった。それは実に呆気ない最期だった。世界のすべてを手にした男のそれとは思えないほど、当たり前の人間のしだった。大王の死後、王国は後継者争いで分割され弱体化し、最後には全て滅んでしまった。それは実に呆気ない幕切れであり、滅亡であった。

No.364

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