見出し画像

かつて

 かつて、この世界には愛があり、友情があり、連帯があり、日々は美しく、人々は満ち足り、その人生を謳歌していた、らしい。かつては。わたしはそれを知らない。それはかつてのお話。いま、ここでのお話ではない。そして、わたしが息をするのはいま、ここ。
 かつての話をするのはおじさんたち。かつての話をするおじさんたちは、おそらくかつての話をするためだけに存在していて、いつも、ひっきりなしにかつての話をする。うっかり目が合ってしまうと、呼び止められ、どうにか逃げようとするのだけれどそれを許さず、狙った獲物は必ず仕留め、かつての話を聞かせるのだ。
「かつては愛があった」
「かつては友情があった」
「かつては連帯があった」
「かつては美しい日々があった」
「かつては、人々は人生を謳歌していた」
 そして、わざとらしくため息をつくのだ。そして、頭を振る。言外に「それに比べ、いまはどうだ」とでも言っているのだろうと思う。こう書くと、ここまではあっという間のように見えるけど、「かつては」の話はとにかく長い。永遠に思えるくらい。その時間を、わたしは死んだ魚の目で過ごす。それらが「いま、ここ」にない責任が、まるでわたしにあるみたいな感じで、わたしは気分が悪くなる。
 現に、街を見渡しても、今ではそれらのほんの一欠片すら見つけられない。その跡さえ無い。
「それはどこへ行ってしまったの?」わたしは彼に尋ねる。彼はわたしと同い年だから、わたしと同じようにかつてを知らない。
「さあね」彼は肩をすくめる。
 誰ひとりとして、それらの行方を知る者はいなかった。かつての話をするおじさんたちでさえ。それを尋ねると「そんなことはどうでもいいんだ」と言って、また得意のかつての話をするだけだ。
「新月にきいてみるといい」彼は言った。彼はたくさん本を読んでるから、いろいろなことを知っている。
「新月に?満月じゃダメなの?」わたしは本を読まない。きっと、本を読むにはわたしは忙しすぎるのだ。
「満ち足りた奴が何かを知っているとでも?」と、彼は言った。
 その日を待って、夜空を見上げた。星が瞬いていた。もちろん月はそこに無かった。それはそうだ。新月の夜だもの。月はそこにない。何も無い夜空に、わたしは問いかけた。答えは返ってこなかった。わたしは何度も何度も問いかけた。何度も何度も。気付くと、空が白み始めていた。
「答えてもらえなかった」翌朝、わたしは眠い目をこすりながら彼に報告した。
「それでも、新月は知っているよ。知らないから答えないわけじゃない」と、彼はコーヒーをすすりながら言った。
「そもそも空にいなかった」
「新月だからね」
 かつては、新月も夜空に浮かんでいた、らしい。だから、新月はかつてを知っている。
「三日月じゃダメなの?」
「知っているのは新月さ」と、彼はトーストをかじりながら言った。わたしは彼のトーストを食べる姿が好きだった。おそらく、彼は世界で一番美しくトーストを食べる人間だ。もしトーストの食べ方コンテストがあればぶっちぎりで優勝するだろう。パンくずひとつ落とさず、その前歯とトーストで奏でるサクッという音は耳をくすぐるみたいだ。
 かつて、かつてを探し求めた人がいました。いつか、わたしはそうやって語られたりするんだろうかと考えたけど、あまりに眠たくなったので、どうでもよくなった。
「おやすみ」
「おやすみ」


No.374


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?