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殺さない屋

「足を洗うことにするよ」と殺し屋が周囲にこぼした。「もう、殺しはやめだ」
 狭い業界だ。噂はあっという間に隅々まで行き渡った。それは驚きをもって迎えられた。衝撃が走ったのだ。彼は業界内では伝説的な人物であり、今もなお業界内の最重要人物だったのだ。
「なぜやめてしまうんです?」彼の弟子は尋ねた。
「あまりに多くの命を奪いすぎた。悟ったんだよ。命はかけがえのないものだって」
「で、やめて一体何をするんです?」
「もう殺さない」彼は言った。「殺さない屋になる」
と、いうわけで、彼は殺さない屋に転身した。その仕事はもちろん殺さないことだ。誰も殺さない生活は平穏無事に過ぎていく。彼は満ち足りていた。
 そんな彼を見て、陰で馬鹿にする者もいた。彼は意にかいさなかったが、彼の弟子が黙っていない。早速行って始末した。よくても鼻を削がれることになった。この知らせに彼は心を痛めた。自分が殺さないことにしたために人が命を落としたのだ。彼は弟子を呼ぶと銃を突き付け言った。
「今度こんな真似しやがったらただじゃおかねえぞ!」
 弟子は震え上がった。殺される、と思った。そして、二度としないと誓った。
 このことで殺さない屋は気付いた。自分が直接手をくださなくとも、誰かを殺してしまうことがあるのだ。どのような形にせよ、命が奪うのは殺さない屋失格だ。彼は自分の身の回りを精査し、殺しに繋がる可能性を排除していった。そこは殺しのプロフェッショナルの彼だ、殺す方法だったらなんだって知っている。知り尽くしている。ならば、その一つ一つをしなければいいのだ。
 刃物は手にしない。銃器なんてもっての他だ。火を扱うこともしない。火事になる。じゃあ、水は?水だって人を殺せる。バケツ一杯もあれば溺死させるのに十分だ。薬も危険だ。毒薬はもちろんのこと。車だって凶器になる。バイク、自転車だってそうだ。傘も危ない。尖端で突けば命を奪える。そうしたものを彼は自分から遠ざけることにした。
 肉食もやめた。牛や豚を殺すことになる。牛や豚だって命をもっているのだ。魚も食べない。魚にも命がある。野菜もだ。草木だって命を持っているのだ。果実は?これは新たな命を担うものだ。まだ生まれていなくとも、命は命だ。彼はそう判断した。こうすると、彼は何も口にできなくなった。
 そのうち、彼は歩き回ることも、呼吸もあまりしないようにしだした。歩けば虫を踏み潰すかもしれない、呼吸をすれば、虫を吸い込んで死に至らしめるかもしれない。
 何も口にせずにいた彼は痩せ細り、風に運ばれて空を旅した。たどり着いたのは岩山の上、そこで彼は石を食べて生きることにした。それは顔をしかめたくなるほど不味いものだったが、彼は我慢して食べた。何か食べないと死んでしまうから。殺さない屋の彼は自分を殺すこともしないのだ。
 彼が去ったあとも、彼の弟子を含めた同業者たちは変わらずに殺したり、殺されたりした。彼の弟子は中でも派手に仕事をし、派手に殺された。恨みを持つ組織の手にかかり、八つ裂きにされて山に棄てられたのだ。
 彼の死体の一部は狼が食べ命を繋ぐ糧となり、また他の一部は分解され大地に吸収されて草木を育てる養分になった。そして、花が咲いたりした。

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